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仙台・宮城・陸奥

1703とはずがたり:2013/01/07(月) 21:51:29

初期の鉄道が昔からの集落に忌避されて離れた場所に敷設されるのは良くある(大きいところでは京都に名古屋,近場だと磐田も見付ではなく中泉につくられて見付が中心性を十分に発揮出来なくなったし掛川もちょっと離れている)が,ここもそうだったのか〜。
山側移設は古くからの集落に近づけるメリットもありか。

海辺の記憶−被災地をたどる/第2部=山元・坂元/鉄路敷かれ人や物集う
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20121227_12.htm

厚い防潮林に覆われていた山元町坂元地区。手前が磯浜=1973年

地図
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/tetsu/20121227020jd.jpg

<集落の「生命線」>
 震災で不通になったJR常磐線は集落の「生命線」だった。宮城県山元町は明治期に鉄路が敷かれ、人や物の行き来が増えた。温暖な気候を好んで移り住む人もいた。
 地域の歩みを振り返ると、畑作や養蚕の盛んな純農村と見られることが多いが、古代には沿岸部で砂鉄を採ったとされる。ことしに入り山間部で見つかった製鉄遺跡は、国府多賀城を支えた「相馬の製鉄」の北端が山元だったことをうかがわせる。
 戦国時代は坂元地区を中心に相馬、伊達両氏の領土紛争が頻発した。兵士の血が川を染めた伝承が残る同地区磯浜の「赤川」など、戦乱のエピソードには事欠かない。
 争いは江戸時代の幕開けとともに収束する。坂元地区は大條(おおえだ)氏、山下地区は亘理伊達氏の支配下に入り、田畑が増えていった。
 町内唯一の漁港がある磯浜ではカレイやホッキ貝がとれた。ただ、遠浅で船の出入りが難しい海岸線のため、大きな発展はかなわなかった。
 山下駅に先駆けて1897年に坂元駅が開業すると、仙台や関東方面に木炭や米、繭、そして魚が運ばれた。盛夏には駅構内に魚が山積みになることもあったという。
 暮らしは楽ではなかった。磯浜の元漁師三宅勝雄さん(86)は「みんな農業や出稼ぎとか別の仕事を掛け持ちしていた」と戦後間もないころを思い起こす。「祭りをやるにもみこしが買えず、数年間は小舟を代わりに担いでいた」と語る。

<町外移住相次ぐ>
 常磐線は本来、現在の国道6号沿いにできるはずだった。「汽車の煙や騒音を嫌った内陸の住民が敷設に反対したと聞いている」と話すのは元町職員の庄子喜代子さん(84)。養蚕業に悪影響を及ぼすと考えた住民が多かったともいわれる。
 結局、線路は藩制期以前から中心だった内陸を避け、沿岸部に敷設。戦後は坂元、山下駅周辺の海岸近くに住宅や商店が並び、坂元では中浜の世帯数が増えていった。
 津波はそんな人々の営みを直撃した。町全体で人口の4%に当たる約630人が犠牲となった。
 不通になった常磐線は内陸へ約1キロ移した上で2017年春の運転再開を見込むが「大動脈」が絶たれた地域からは町外へ移住する人が相次ぐ。
 「鉄道が沿岸に敷かれなければ、もう少し事態は違っていたのかもしれません」。庄子さんはやりきれない思いを口にした。(亀山貴裕)

<メモ>赤痢菌を発見した事で知られる仙台市出身の細菌学者、志賀潔は晩年を坂元村磯浜で送った。当初は別荘として建てた貴洋翠荘(きようすいそう)に夏ごとに家族で訪れたが、戦災で東京の自宅を失い移住した。海岸を散歩したり回想録を書いたりして暮らしたという。

◎坂元地区の関連年表

▽16世紀後半 相馬氏と伊達氏の領土紛争が頻発
▽1602年 伊達成実が亘理に入る
▽1616年 大條宗綱が坂元に入る
▽1739年 磯浜沖に黒船が現れ、藩内が騒然となる
▽1870年 亘理藩士らの北海道移住始まる
▽1889年 山下村と坂元村が誕生
▽1897年 常磐線坂元駅が開業
▽1949年 同山下駅が開業
▽1955年 山下村と坂元村が合併して山元町に
▽1960年 チリ地震津波で倒壊家屋が多数出る


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