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仙台・宮城・陸奥

1402荷主研究者:2012/01/15(日) 11:46:43

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111218t15019.htm
2011年12月18日日曜日 河北新報
歴史的集落も移転対象 仙台市沿岸部・和田と荒浜

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1820年代前半の荒浜周辺の絵地図。緑の部分が海で、肌色の部分に集落が見える(宮城県公文書館所蔵)

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江戸期の面影を残す和田地区の西小路。屋敷林「いぐね」の大半が津波の塩害で枯れた=仙台市宮城野区蒲生

 仙台開府(1601年)後に起きた慶長三陸地震津波前後に、仙台市沿岸部にできた和田(宮城野区)、荒浜(若林区)という歴史ある集落が、市の震災復興計画の移転対象に組み入れられた。慶長津波後に、新田開発などによる食料供給拠点として復興を支えた両地区だが、これまで通りの集落維持は難しく、歴史的な転換点を迎えている。

◎1611年慶長津波後の復興支える/住民「居住地再興が願い」

 宮城野区蒲生の西端に位置する和田地区。震災の津波で住宅は大きな被害を受け、屋敷林の「いぐね」も塩害などで大半が枯れた。それでも、「西小路」「北小路」と呼ばれる道や地割は、江戸期の面影を今も残す。

 同地区は慶長津波後、間もなく、和田家の所領となったのが起源。農村に藩士と家臣が屋敷を構えた集落「在所」として位置付けられた。市内では同地区と松森地区(泉区)の2カ所しかない。

 「和田新田」の名が残るように、和田家は仙台平野の新田開発や河川整備を進めた。伊達政宗に京都でスカウトされたという初代和田因幡為頼、2代房長ともに藩財政を預かる出入司を務めた。津波や塩害対策として沿岸林の植樹も手掛け、その範囲は塩釜市から仙台市まで及んだという。

 同地区は移転対象の災害危険区域に入ったが、震災後も約40世帯が自宅に戻り暮らしている。

 和田町内会長を務め、和田家家臣の系譜に連なる高橋実さん(73)は「慶長津波の後に復興の最前線を担った地区の歴史は評価されるべきだと思う。居住地として復興させ、震災を語り継ぐことが子孫の責務」と言う。それがかなわない可能性もあるが、高橋さんは「それでも和田家の偉業をたたえる土地の活用を図ってほしい」と願う。

 和田地区同様に災害危険区域に入った若林区荒浜地区は、慶長年間(1596〜1615年)に、5人の浪人が移り住んで誕生したと伝わる。

 当時、荒浜は湿地帯で、農業だけで暮らせない住民が沖でヒラメやサケを捕り、半農半漁の集落を形成した。閖上(名取市)と並び、仙台城下の台所を支えたという。

 10代にわたる農家の佐藤長良さん(75)は「何代にもわたって築かれた集落。移転するにしても荒浜と名の付く場所で復興を目指したい」と希望する。今は災害危険区域から外れた荒浜西部の農地への移転を見据える。

 「和田を含む蒲生は新田開発と物流の拠点、荒浜は海産物の水揚げと、それぞれの役割を担い発展してきた」と市博物館の菅野正道市史編さん室長。「その歴史が途絶えるのだとしたら、残念でならない」と語る。慶長津波をへて、仙台の街づくりに影響を与えた両地区の姿は大きく変わろうとしている。

[慶長三陸地震津波] 1611(慶長16)年に発生した大津波。徳川家康の行動を記録した「駿府政事録」には、仙台藩内で溺死者5000人、津軽や南部藩でも3000人が亡くなったと記録されている。


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