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仙台・宮城・陸奥

1とはずがたり:2008/06/05(木) 12:05:28
地区別スレ,遂に仙台も登場。陸奥とは勿論多賀城を首府とする明治以前の陸奥だ♪
本来はにぬけんが立てるべきだが何時迄俟っても立てやがらないので俺がたつヽ(`Д´)ノ

1285とはずがたり:2011/09/05(月) 17:28:59

証言/石巻専修大の奮闘/施設を開放、災害拠点に
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110901_01.htm

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた石巻市で、建物や設備への被害が比較的少なかった石巻専修大は震災直後から、災害対応の最前線拠点として役割を果たしてきた。避難してきた多くの市民を収容する一方、ヘリポートや救護所、ボランティアセンターが相次いで開設された。未曽有の事態への対処を迫られた教職員や学生たちは、戸惑いながらも全力で運営を支えた。(東野滋、土屋聡史)

<切迫>
 3月11日午後6時半。停電で一帯が暗闇に包まれる中、自家発電の明かりがともる大学に近隣住民ら100人以上が集まってきた。
 大学には既に、地震発生時に実験などをしていた教職員と学生ら計約300人がいた。指定避難所でないため、備蓄の食料や水には限りがある。
 「大学としては学生を守るのが第一だが、人が入れる場所がある以上、知らん顔はできない」
 当時学生部長だった理工学部の山崎省一教授(60)は、教職員が話し合って、避難者の受け入れを決めた理由をこう説明する。
 12日には近隣の避難所に入れない人が押し寄せた。市も避難者の大規模な収容を要請。1日最大約1000人の市民が暮らす避難所が誕生した。
 42万平方メートルの広大な敷地に体育館や多数の教室があり、自家発電も備える。大学は一気に重要拠点となった。
 坂田隆学長(60)は「震災で真っ先に役立ったのが大学の持つ『ハード』だった」と語る。
 市や自衛隊、日本赤十字社などの外部機関が次々と協力を求め、13日にはグラウンドに臨時ヘリポートが完成。15日にはボランティアセンターと救護所が設けられた。
 グラウンドはボランティアがテントを張る用地にもなり、延べ9万人以上が利用した。
 市社会福祉協議会の大槻英夫事務局長(61)は「地震後、広い敷地と頑丈な建物がそろった場所はほとんど残っておらず、大学の存在に助けられた」と感謝する。

<忙殺>
 「避難者」だった教職員や学生は、運営を支えるマンパワーとして動きだすしかなかった。
 増え続ける避難者の教室への誘導、経験の無い避難所運営の補助、情報が錯綜(さくそう)する中での外部機関との調整…。教職員約30人は多忙を極めた。事務課の尾形孝輔さん(30)は「最初の10日間の記憶がほとんど無い。当時のメモを見ても思い出せない」。
 学生も13日朝、残っていた約150人が8グループに分かれ、教職員の手伝いを始めた。トイレなどの清掃や救援物資の仕分け、駆け付けた保護者の応対。作業は山ほどあった。
 床に敷いた段ボールやいすの上での睡眠時間は約4時間だった。風呂はなく、消臭剤を使って同じ服を着る毎日。下着は1週間はいて捨てた。
 地震後に栗原市の自宅に帰り、12日に大学に戻った理工学部4年の三塚光さん(22)は「被災の体験談に圧倒されたり、責任の重い仕事を任されたりした。1日があっという間だった」と語る。

<一心>
 4月28日、最後まで残った避難者約30人が退去し、大学は避難所の役割を終えた。
 「新学期を控え、別の避難所に移ってもらった。申し訳なかったが、『ありがとう』と言われて救われた」と語る山崎教授。「困難は多かったが教職員も学生も、石巻のために自分ができることをやろうという一心で乗り越えた」と振り返る。

1286とはずがたり:2011/09/05(月) 17:29:17
>>1285-1286
◎被災地の大学、重責自覚/学生の安否 確認懸命

 震災発生から一夜明けた3月12日、石巻専修大の教職員は詰め掛けた大勢の避難者の対応に追われる一方、学生、大学院生計約1900人の安否確認という重い課題に直面していた。電気も電話も使えない中で、懸命の作業が始まった。
 「サーバーが使用できないなんて…」
 事務課の千葉真哉さん(34)は12日朝、同僚の報告に頭を抱えた。学生の住所や連絡先を管理するサーバーがある棟には、自家発電の電気が供給されていなかった。
 「手作業でやるしかない」。紙の名簿から沿岸部に住む学生を片っ端から抜き出し、リストを作成した。電話の復旧と同時に、一斉に安否確認に取り掛かるためだった。
 姉妹校の専修大(東京)は12日、ホームページ上で石巻専修大の学生に安否を連絡するよう告知。仙台市に住む石巻専修大の教員は、手持ちの名簿を基に学生に電話をかけた。
 石巻、仙台、東京にそれぞれ寄せられた学生からの連絡を集計できたのは21日。1675人の安否がやっと確認できた。
 実際にゼミの所属学生を捜し回った教員もいる。経営学部の李東勲(イ・ドンフン)准教授(41)は12日朝、市内に住む8人の安否を確かめようと、避難先の高台から市中心部に向かった。
 避難所と病院を回ったが、誰も見つからない。ヘドロの異臭が漂い、がれきや車の残骸が散乱する光景を前に最悪の事態が頭をよぎった。
 「先生、先生!」。突然、耳慣れた声が聞こえた。5メートル先にある水没寸前のアパートの2階で、男子学生が手を振っているのが見えた。
 一呼吸置いて叫び返した。「けがはないか! 食料はあるか!」。李准教授は15日、8人全員の無事を知った。
 3月30日、安否確認に一定のめどが付いた。学生6人、入学予定者1人が津波にのまれて亡くなっていた。
 自宅が津波で流失するなど被災した学生は約400人に上る。職員は下宿先や交通手段の確保、新学期の準備という新たな仕事に奔走し、5月20日の大学再開にこぎ着けた。
 「親を亡くし、つらい思いをする子どもを見てきた。将来、サポートしてあげたい」
 震災発生から間もなく6カ月。学生たちは若い心で震災を受け止めている。
 理工学部4年の小川雄也さん(22)は大学院に進み、小学校教師になることを決めた。避難所となった大学で多くの子どもと接したのが理由だ。
 「祖父母が戦争体験を語ってくれたように、震災で何があったかを次世代に伝えたい。被災地の学生だからこそできることだし、その責任がある」

2011年09月01日木曜日


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