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芸術・美術・音楽

710とはずがたり:2018/09/27(木) 17:27:35
>>707-710
量産される女性裸体像
それにしても、どうして《平和の群像》は裸婦でなければならなかったのか。吉田は菊池から、ギリシャ神話の三美神になぞらえた裸婦像のアイデアを聞いた際、「構想が奇抜で、今の時代感覚からすると早過ぎはしまいか、むしろ子児の像を配した方が良くはなかろうか」と思ったという★7。しかし菊池の強い希望で、《平和の群像》は裸婦像となった。菊池の弁はこうだ。

わが国では最初の裸婦の街頭進出なので、アイデアを練るのに相当勇気が必要だった、従来の銅像タイプを破って芸術性の高いものを意図したが、これを機会に彫刻家がこの方面に大胆な意欲を発表して欲しい
(『毎日新聞』1950年6月14日付)

《平和の群像》は前例のないヌード彫刻の街頭進出であったため「建設時には裸体彫刻が猥せつでないことを区長や区議長に説かなければならなかった」と菊池が苦心した記録が『電通 一〇〇年史』に残っている。菊池がつゆはらいとなり、そして彼に続いたたくさんの彫刻家が「大胆な意欲」を発揮した結果、この国の公共空間には他国に例がないといわれるほど、裸体の彫刻があふれるようになった。軍国主義からの脱皮を示しているのだ、というだけではもはや説明がつかない。どうしてこれほどまでに裸の女は量産されたのか。答えは端的に、この国の彫刻教育にある。

日本において彫刻を学ぶこととは、裸の女をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言ではない側面がある。そこでは、西洋における文脈や図像学的な解釈を学ぶことは留め置かれ、形態を模倣し再現することが重んじられる。このような仕組みは「石膏デッサン」の問題とも通底するだろう。

『電通創立五十周年記念誌』のなかで菊池は、「わが国では最初の裸婦の街頭進出」に際して、ギリシャ神話の三美神を参照し、敗戦から起き上がる「意欲」「理知」「愛情」を3人の女性の裸体をもって表現したと述べている。軍人像の跡地に置く「文化日本を象徴する彫刻」として、ここで目指された「芸術性の高さ」には評価に値するものが確かにある。

ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。

裸婦像の制作を必須のカリキュラムとする美大・芸大の彫刻教育の現場において、ここに記した彼女たちの出自が共有され、「彫刻家」が何に荷担してきたのかについての教育が行なわれることを私は望む。

結びにかえて──答える者のいない問い
1987年、日本においても多数の公共彫刻を手がけてきたアメリカの美術家、ジョナサン・ボロフスキーが個展のために来日したとき、会場であった東京都美術館では「日展」が開催されていた。会場にびっしりとならぶ大量の裸婦彫刻を見て、ボロフスキーはいたく感心したという。これだけの量の彫刻を用意し、展示を構成した美術家はいったい誰なのかと。「アーティストの名前を教えてください」と彼は言ったという。

このエピソードは信頼のおける年長の美術家数人から伝え聞いたものだ。おそらくこの話の教えとは、新鮮なまなざしを取り戻そうということなのではないか。そうであるなら私も、この国の公共空間にあふれる女性裸体像について問うてみたい。

「誰がこれほど大規模なインスタレーションを構成したのですか? アーティストの名前を教えてください」★8


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