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芸術・美術・音楽
709
:
とはずがたり
:2018/09/27(木) 17:26:43
新しい時代の理念を、「平和」という名前を冠した彫刻を用いて宣伝すること、それこそが吉田の企図であった。その意味でこの彫刻の設置は、上野公園でも芝公園でもなく、ほかの空の台座の上でもなく、航空陸軍本部の接収によって生まれ、皇居に張り付くように存在した米兵街のある「三宅坂」でなければならなかったのだろう。
このようにして生まれた《平和の群像》は、67年前の建立時と変わらぬ姿で、今日も皇居に向かって手を振り続けている。
《平和の群像》は「新しい日本」を示したか
《平和の群像》の除幕式においても「平和」と「新しい日本」が強調された。以下は、日本国憲法制定の議論に関わり、読売新聞社社長も務めた馬場恒吾による除幕式での式辞である。
軍閥の銅像があったこの場所に、平和を象徴する女性の群像が建設されようなど、いったい誰が予想しただろうか。……この平和の群像は、新しい日本を示すものである。……われわれは、この平和の群像を守らねばならない
(『電通66年』電通発行、1968年)
しかし果たして、三宅坂の台座の上で起こった彫刻の交代劇は、「新しい日本」への転換を示したと本当に言えるのだろうか。国民的記念碑としての銅像は、明治後半から雨後のたけのこのように乱立し、プロパガンダ(宣伝)に活用された。だが1,000体近くまで増えた銅像は、金属回収とGHQの方針による撤去により一斉に消える。その空白を利用して、平和の時代の平和の彫刻が誕生したが、それは《平和の群像》銘板に刻まれているように「平和を象徴する広告記念像」であり、宣伝広告のための彫刻だった。
ここに「新しさ」はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性があると言えないか。つまりは、軍国主義が台頭した戦中に民衆教化に用いられた銅像も、敗戦後に旧体制からの脱皮と「新しい日本」が重ねられた平和の裸婦像も、体制の宣伝装置としての彫刻をいたるところに建立させる現象と見ればまったく同質のものである。公共空間の女性裸体像こそ、政体がかわろうとも彫刻が求められたこと、その証なのだ。
話を現代に戻そう。2017年、アメリカ、シャーロッツビルでは、南北戦争の銅像記念碑の撤去をめぐって賛成派と否定派のあいだで激しい衝突が起き、死傷者が出た。一方、韓国において80体以上を数える「慰安婦像」(正式名称《平和の少女像》)は日韓の国民感情を著しく悪化させたとされる。これらの彫刻はまさに「歴史」の表象であり、かたどられた人物が背負う思想の身代わりでもある。だからこそ、身代わりは繰り返し引きずり倒され、打ち壊されてきた。彫刻が深刻な対立を生み出し、暴動が起き、死者すら出ている現実がある。しかしそれでも、人間は彫刻を求めてやまない。そこに何を見いだすことができるだろうか。
《平和の群像》を起点とする公共空間の女性裸体像が示すのは、敗戦と占領というこの国の「歴史」だ。この意味で、彼女たちは「戦後民主主義のレーニン像」であるとも言えるだろう。長崎という場所がこのことに気付かせてくれた。
これまで《平和の群像》が三宅坂の軍人像跡地に建てられたことは、いくつかの本や論文で取り上げられてきた。だが驚くべきことに、《平和の群像》こそ公共空間の女性裸体像第一号であり、それが電通の演出による広告記念像として誕生したという事実と、平和の彫刻への交代劇にGHQが関与した可能性については、光が当たることはなかったのである。彼女たちは顧みられることなく、無言で立ち続けてきた。
だからいまこそ、この国に女性裸体像が氾濫している意味を問う必要がある。人と人が彫刻によって分断され、彫刻をめぐって衝突するいまこそ。
彫刻を見よ、街頭に固定された裸の女たちを見よ。
人間にとって彫刻とは何か、その手がかりがここにある。
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