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芸術・美術・音楽
54
:
チバQ
:2010/03/03(水) 23:57:15
行ってきました。
松林図屏風はまさに日本の宝
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201003030330.html
長谷川等伯、多彩な画風 没後400年記念展(1/2ページ)2010年3月3日15時56分
■仏画・水墨…70点終結
桃山時代の画家・長谷川等伯(1539〜1610)といえば、松の木々が霧に煙る国宝の水墨画「松林図屏風(びょうぶ)」を思い起こす人が多いかもしれない。しかし没後400年を記念し、東京国立博物館で開催中の過去最大規模の「長谷川等伯」展では、驚くほど多様な等伯と出あうことになる。
能登(石川県)に生まれ、信春と称していた絵仏師時代の仏画や肖像画から、絢爛(けんらん)豪華な金碧(きんぺき)画に水墨まで。代表作を含む約70点の多彩さは、本当に一人の画家が描いたのか、と思えるほどだ。
同博物館特別展室長の松嶋雅人さんは、「今の芸術家と違い、さまざまな需要に応えていた当時の大絵師は、表現の高さと幅がないと仕事にならなかった」と話す。
ライバル的存在だった狩野永徳らと比べても、等伯の幅は広いという。「能登時代の仏画は、京都の絵仏師と比べてもやぼったい。年齢を重ねてから学習し、多くの表現に挑戦している」。若くから名品に接して表現を洗練させた名家の御曹司・永徳ら以上に、幅広さや時にオリジナリティーがあるように見える一因だろう。
50代には豊臣秀吉の命で、国宝「楓(かえで)図壁貼付(ずかべはりつけ)」など祥雲寺の金碧障壁画(現在の京都・智積院障壁画)を描くなど“下克上”を果たすが、その人生や作品には謎も多い。
例えば33歳で京に上るが、その後17年ほどは消息が不明。信春と等伯も長く別人と考えられていて、重要文化財「日堯(にちぎょう)上人像」に書き込まれた文字などから同一人物視されるようになったのは、昭和になってからだ。
作品に関する謎なら、「松林図屏風」だろう。六曲一双の屏風だが、紙の粗末さや紙継ぎの線が段違いになっていることから、もっと大きな障壁画のための草稿を屏風の形に張り直した、という説が有力だ。一方で、墨は上質。構図から左右が逆なのではないか、という見方もある。来歴は定かではなく、押された印にも偽印説がある。
松嶋さんは、等伯作品の特徴を、「多彩に見えても、仏画や肖像画の時代から障壁画まで、平面的で奥行きを強く表そうとしない。やまと絵の特質がある」と見ている。そのなかにあって、墨の濃淡と余白で、見る位置で変化する奥行きを備えた「松林図」は異質と映る。西洋絵画に慣れた近代のまなざしに訴える面もあり、それが現在のような人気を生んでいるともいえるようだ。
本当に等伯作品なのか、とも思えるが、中国の画僧・牧谿(もっけい)の水墨画の「空気感」などを学んでいる時期もあり、50代半ばの作とされる松林図をそこに位置づけることができるという。「松林図は光の中に現れる『影』を描いているともいえます」と松嶋さん。
等伯の作品は当時、寺などに納められていった。「本人も、今回のように一気にまとめて自作を見ることはできなかったでしょう」。本人にかわって見る人なりの画家像を描ける機会ともいえそうだ。
◇22日まで。4月に京都国立博物館に巡回。(大西若人)
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