[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
芸術・美術・音楽
178
:
チバQ
:2011/09/27(火) 23:21:21
http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201109260171.html
帝劇100年(上) 世界へ発信 夢追って2011年9月26日12時4分
帝国劇場(東京・丸の内)が開場100年になった。明治の空気の中で産声をあげてから、21世紀の今日まで、帝劇の舞台は時代を映し続けてきた。
皇居の堀に面した、黒と茶色の落ち着いたビル。帝劇はこの建物の地上9階、地下6階を占める、約1900席の大劇場だ。東宝の直営で、1年を通して演劇やミュージカルを上演している。9月はジャニーズ事務所の亀梨和也主演「ドリームボーイズ」で沸いた。活気に満ちたショービジネスの拠点である。
誕生した頃の帝劇は、重々しい名の通り、国威を示す場所だった。
日本が近代化を急いだ明治期、帝劇建設は渋沢栄一ら財界人を中心に進められた。目指したのは、外国の賓客をもてなし、舞台芸術を発展させるための本格的な西洋式劇場。国立劇場のような役割が想定された。女優と音楽家の養成もした。
1911(明治44)年3月、帝劇開場。1700の座席は椅子。鉄道経営のノウハウを応用して開演時間を明示し、誰でも窓口でチケットを買える仕組みにした。客席での飲食・喫煙は禁止。現代に通じる観劇ルールはこの時に生まれた。
記録を見ると、オーケストラピットがあり、花道も置ける和洋折衷の舞台に、歌舞伎、西洋舞踊、新派、新劇、オペラ、活動写真……と多様な演目が並ぶ。梅蘭芳の京劇、ロシアのアンナ・パブロワのバレエなど来日公演も多い。海外の文化への窓でもあったことがうかがえる。
デパートに転身した三越呉服店が「今日は帝劇 明日は三越」と宣伝したように、劇場は大正のモダンな都市文化の象徴であった。
だが関東大震災で焼失した後は、不況や戦争など「不遇」の時代が続く。新しい時代が始まったのは45年10月。多彩な演目が帰ってきた。
戦後の帝劇を支えた一人が菊田一夫だった。請われて東宝役員になった菊田は、老朽化した劇場の建て替えを主導。66年に生まれ変わった帝劇で、制作面はもちろん、舞台作りに直接腕をふるった。
66年9月、新装開場公演で帝劇に初出演した森光子は「菊田先生は世界で一番新しいことをなさろうとしていました」と振り返る。
目指したものは何か。
『菊田一夫の仕事』(社会評論社)の著者で近現代演劇を研究する井上理恵は「世界に発信できるスケールの大きな作品、特にミュージカルの上演だったのでは」とみる。
新しい帝劇で菊田は、自身の脚色・演出で、世界で初めて「風と共に去りぬ」を舞台化した。66年11月から68年2月まで「第1部」「第2部」「総集篇」を通算10カ月上演した。後にミュージカル「スカーレット」となり、海を渡る。「充実した劇場機構が素早い舞台転換など先進的な演出を可能にした。ブロードウェーに負けない帝劇で、中身も世界に誇れるものを、と考えたのではないか」と井上はいう。
ほかにも文芸大作を多く作り、ミュージカルでは複雑な内容の「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」なども取り上げた。井上は「劇作家でもあった菊田の内容を重視する目を感じる」という。その意欲に森繁久彌や市川染五郎(現松本幸四郎)、宝塚出身の女優たちが応えた。菊田は亡くなる前年の72年、ミュージカル「歌麿」を作・演出。海外上演を夢見ていたという。
菊田の死後、森繁や山田五十鈴、山本富士子、佐久間良子らスターの主演舞台が帝劇の中核に。しかし80年代後半から風向きが変わる。大物俳優の高齢化や団体客の減少で、新しい演目が必要になってきた。
87年、ロンドン発のミュージカル「レ・ミゼラブル」が登場した。この作品が、新たな時代を開くことになる。(山口宏子)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板