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【廃道・隧道】山さ行がねが応援スレ【冒険・探索】
548
:
とはずがたり
:2020/06/14(日) 00:29:07
竹内正浩氏の『ふしぎな鉄道路線』(NHK出版新書・2019)を読んでいる。
奥羽本線の秋田〜鷹ノ巣間の経路を巡る渋沢栄一vs児玉源太郎の対決等なかなかおもろい♪
これは鉄道敷設法の結果設置が決まった鉄道会議(明治25(1892)年設置)での席上の事であった。
野辺地辺りの東北本線が海岸沿いで国防上ダメだから副本線として作られた筈の奥羽本線も秋田〜能代は海岸沿いやんけとはずっと思ってたけど激論があった様である。
時は設置翌年,M26の会議での事で,児玉が主張したのが山の中を通る仁別線でこれが実施案(本命),地元代議士なども賛同して渋沢が主張したのが現在のルートに近い当て馬案の檜山線である。激論の末僅差で檜山線が通り,更にM32実際の建設を前にして,(渋沢と児玉の退任後ですんなり決まったが)檜山から能代寄りの機織に経地が変更となったそうな。
我がバイブル『駅』シリーズの『奥羽・羽越400駅』(宮脇・原田編・1984・小学館)の東能代駅の項には元々藩政の要衝檜山を通す予定だったが,能代側に寄せられ,国道の軽油からも外れて檜山は衰退が加速したと云う記述があったがこういう背景があったようだ。
すげえ繋がった。
児玉の主張する仁別線が出来てたら山行がにも恰好のネタを提供していたかも知れない。
奥羽本線のこの辺の開通は弘前方面から延びてきてて,鷹ノ巣迄明治33(1900)年,現東能代である能代(機織に改称はM42)に明治34年,秋田迄が明治35年だそうである。鉄道会議での変更時期を考慮に入れると変更後東能代経由で建設に取り掛かったのであろう。能代の経済力の勝利と云ったところであろうか。艦砲射撃が心配なら秋田ももう一寸内陸に建設しても良かった様な気もするが土崎も重要な港湾だったようである。仁別線の代替物は結局,秋田内陸縦貫鉄道で実現されたと云うべきか。
仁別線構想では実際は仁別からは北へ向かい北ノ又,南沢を経て鷹ノ巣〜二ツ井間(現前山付近?)で現在線に合流する。
仁別に関しては奥羽本線開通後の明治42(1909)年仁別森林鉄道が秋田から仁別経由で更に山側の旭又迄開通(S43(1968)年廃止)している様である。
http://yamaiga.com/koneta/koneta_93.html
(路線図有り)
南沢付近には小阿仁森林鉄道があった様である。
http://yamaiga.com/koneta/koneta_138.html
(路線図有り)
http://yamaiga.com/rail/minamisawa/main.html
実際にヤバいとなったら二俣線みたいに仁別線が建設されたかも知れない!?
当時,角館線は何も無く,阿仁合線も米内沢まで出来たのが昭和9(1934)年であり昭和11年には阿仁合迄完成している。
秋田,仁山,北ノ又,滑多羅温泉,南沢,上小阿仁,米内沢辺りの新線となるw
仁山や南沢には当然,二ツ井みたいな林鉄のターミナルが設置されたり南沢〜二ツ井の小阿仁林鉄は廃止になったりしただろうが,勾配とか,特に北ノ又〜南沢など,を考えるとまともに機能した感じがしないww
戦局の悪化で海岸沿いを避けるとしても秋田から大久保迄水口・笹岡・青崎を経由する鉄道会議では仁別線の一部代替案として提示された一寸だけ内陸走る五十目線(五城目街道経由)のラインで別線造るぐらいが現実的だったかも。現在線は土崎港や船川港へのアクセス臨海鉄道として活躍しつつ内陸線と海岸線で複線形成したりとか色々妄想が膨らむw
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