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【廃道・隧道】山さ行がねが応援スレ【冒険・探索】

1とはずがたり@元林道部会長:2007/09/30(日) 23:18:53

山さ行がねが
http://yamaiga.com/index2.html
ヨッキれんを応援しようヽ(`Д´)ノ
皆の実行したアホな冒険譚も求む。

474とはずがたり:2019/09/07(土) 23:13:38
<上野城・芭蕉翁記念館・忍者博物館>
川崎二郎が強い不愉快な土地柄であるけど上野城の天守閣登ったら川崎克とかが天守閣の再建に尽力したとかで伊賀土民どもの民度の低さには辟易。何時迄も有り難がってんじゃねーよ,阿呆どもめが。
芭蕉翁記念館はまあ古くて狭かったがまあまあだった。忍者博物館もまあ面白かった。ただこんな阿呆どもの住む伊賀にカネを落としたのが残念でならなかった。。
崖を降りて帰ろうとするもまあ泣いて反対するので諦めて回り道してちゃんとした道を通って帰る。まあ阿呆は伊賀の市民の方々ではなく俺である様だw

<三田坂>
本日走破してきた。我が壬生野往還の最弱点は壬生野ICの信号待ちの長さなんだけど,此処へ取り付くには伊賀一之宮IC辺りから降りれば良いので,高速度の名阪国道を数km余分に走れるメリットがある。

という事で壬生野往還が三田坂往還に変更できるかも位の熱い眼差しで注目してたんだけど,結論から言うと矢張り無駄な公共工事の誹りは免れないのではないかという事である。まあそこそこ走ってたけど,一之宮方面からのポテンシャルを全然感じさせない・・・。

R163のBP群(東端が島ヶ原BP)と三田坂BPと名阪伊賀一之宮IC辺りが有機的に繋がると面白いんだけど

●R422三田坂バイパス
http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/m0039500022.htm

一般国道422号三田坂バイパスが全線開通します
 一般国道422号は、滋賀県大津市を起点に伊賀市内を南北に縦断する路線ですが、急峻な山間部である伊賀市諏訪から三田までの区間は、道幅が狭く、急カーブ・急勾配の箇所が多いことから普通車がすれ違うことも困難な未改良区間となっています。また、雨量規制区間であるため、大雨時には地域住民の生活に支障をきたしています。
 これらを解消し、地域住民の安全・安心な暮らしを支えるとともに、地域間交流を促進することを目的に整備を進めてきた一般国道422号三田坂バイパスが2月25日(日)に全線開通します。

1 開通日時  平成30年2月25日(日)16時(予定)

<諏訪〜西高倉>

この区間は伊賀コリドールロードに指定されている。

●伊賀コリドール
http://www.pref.mie.lg.jp/MURAS/HP/37112025362.htm

伊賀地区を環状で結ぶ農道である。2車線道路。

今回は走らなかったが,というか急遽多羅尾方面へ曲がった,諏訪〜丸柱はR422と平行しているが此処は二重投資しないやろうねえ。。
東側は上柘植IC以南の道路だそうな。

<御斎(おとき)峠>
家康が本能寺の変の時,堺から命からがら領国に逃げ帰った時に信楽の方から通ったのが御斎峠だそうである。(丸柱の方を通ったという説もあるそうな。)
マップルの地図では滋賀・三重・奈良ともに御「斉」峠となっている。

●県道138号信楽上野線
https://yamaiga.com/mini/233/main.html
多羅尾側の異常区間はよっきもレポしているが,この峠から三重側の区間はあんま見ない。
ゼンリン切って地図的に無能になったグーグルは掛川川根線同様にこの区間を県道扱いしてしてけつかる。
まあ向こうと違ってこちらは舗装された立派な通り抜け道路で,実際にタラオCCやそれに併設された信楽温泉からの帰途と思われるクルマと頻繁にすれ違う。R422の指定はこっちだったのではないかと思わざるを得ない。その場合三田坂PBみたいな長大な御斎トンネル掘るという寄りは頂上付近にあるタラオCCへのアクセスを便利にする感じになったのかも知れない。

<多羅尾>

多羅尾は交通の要衝であるのがこの県道標でお判り頂けると思う。先日はr5からGパーク信楽GCへ抜けようとしたが道が解らなかったが抜けられたら多羅尾に出た筈である。まあ錯綜しているように見えるけど結局平行する2本の県道で信楽と多羅尾は結ばれてるだけなのだが,まあ滋賀の甲賀のどん詰まりにしてはまあ恵まれている。というのも基本どの聚落にも県道の1本や2本通ってるのが日本ってやつなのだが,この先の童仙房はそうではないからである。
https://www.google.co.jp/maps/@34.8135746,136.0389645,3a,37.5y,178.99h,105.57t/data=!3m9!1e1!3m7!1sUUsqvqrenKLkh2kz5J6pdw!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i27

多羅尾のどん詰まりにこんな表示が。
https://www.google.co.jp/maps/@34.8099672,136.0338823,3a,37.5y,274.78h,81.49t/data=!3m9!1e1!3m7!1sD-2vpfi4UEPAY91sE0UOEw!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i44
島ヶ原・野殿(知らん)・笠置に出るか大河原に出るかの選択である様だが,R163の走行区間を成る可く減らすのが今回の目標であるので,信楽の方へ抜けるという三田坂を選択した当初からの計画が此処で正式に抛棄されることになるが先ほどの要衝で信楽へ向かう県道を選択しなかった時点で確定的であった。前回の帰省時に通り損ねた童仙房が目標となったのである。

475とはずがたり:2019/09/08(日) 09:43:12
>>474
<多羅尾〜島ヶ原>

さて,島ヶ原であるが,実は多羅尾からはまっすぐ南側にある。
しかし(三重県伊賀市内の)島ヶ原への道路はグーグルなので怪しいけど林道多羅尾線と云って(京都府)南山城村の方へ抜けて,そこで三国越林道ぶつかって終わりその三国越林道が結ぶ野殿方面と島ヶ原方面へ岐れるのである(であるから,南山城村の中心の大河原へは直結しない。)
此処は今回通らなかったので地図で確認する所,である。
https://www.google.co.jp/maps/@34.7937116,136.019298,3a,75y,222.8h,102.68t/data=!3m10!1e1!3m8!1sYzP834_DTwBFKQ6wPorFEg!2e0!6s%2F%2Fgeo3.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DYzP834_DTwBFKQ6wPorFEg%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D83.798584%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i44

上野=島ヶ原…多羅尾:道無し(島ヶ原迄はR163)
上野─御斎─多羅尾─信楽:一部指定無し
上野=三田坂─丸柱─信楽:R422指定大改良済

各峠の扱いの違いに一寸ここが可哀想だが,島ヶ原からは実は真北にr305という観菩提寺線が延びている。
この珍しい300番台の三重県道であるが,多羅尾迄伸ばして行き止まり県道の滋賀r334と一体化したりすれば面白いのにぃ。。

<多羅尾〜野殿〜童仙房>
さて,童仙房方面へ向かうといきなり道が狭小。。舗装はされているがすれ違いは出来ない幅員。おいおいと思いながらも進んでいく。

かなり進んで,峠下で未舗装の分岐を岐けて(マップルでは点線で野殿の方へ繋がってた。点線は車道に適さない道路である筈だが,この程度の未舗装なら攻略可能っぽいな・・)峠をやっと越える。

峠を越えると茶畑が現れ極小さな聚落が現れた。道も広くなる。おお,下界へ出たか!と思ったが,凄い勢いで道が塞がれていて再び狭くなった。童仙房の小字で牛場というらしい。
https://map.yahoo.co.jp/maps?cond=lat%3A34.81156300%3Blon%3A136.03602691%3Bac%3A25209%3Baz%3A54%3Bz%3A16%3Bfa%3Apa%3Bei%3AUTF-8%3Bp%3A%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%B8%82%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%94%BA%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%B0%BE%3Bdatum%3Awgs%3Bs%3A1450007807fd009e0d0fedd3b3a819e399db74cc10%3Blayer%3Apa%3Bplacegenre%3Aaddress%3Bopacity%3A0.25%3BclassName%3Ayolp-tilelayer%3B&
道は狭くなって,一寸した峠を越えると太陽光発電所等がありまた一寸だけ広くなっている。南山城村がこんなとこを一寸だけ拡幅しようとした意図は不明である。どっかの時点でカネが余ったのだろうか?

牛場の小字,小さな峠の手前は同じ木津川水系ではあるけど,南山城村の大半とは違って和束川の支流へ流れ込む様だ。不動の滝というのもがあるらしい。クルマで行けるとあるがどこから20分もあるけばいいのかね??無料とは云え水曜日のみ運行のバスとは。。

【野殿・童仙房】スポット紹介 不動の滝
http://www.vill.minamiyamashiro.lg.jp/contents_detail.php?frmId=714
南山城村役場から不動の滝周辺まで車で約15分
コミュニティバス(毎週水曜日運行・無料)『簀子橋』乗降口から不動の滝周辺まで徒歩約20分

バスの時刻表が変わります
http://www.vill.minamiyamashiro.lg.jp/contents_detail.php?co=ser&frmId=1538
大河原コミュニティバス
大河原コミュニティバス時刻表
高山大河原線村営バス

更に行くと三叉路に出る。山側には高麗寺へ行くらしい。ハングルも併記されているので本当に韓国・朝鮮系のお寺らしい。
調べてみるとホムペもあった。

●高麗寺

仙の森へおいで!! 高麗寺 日本にある韓国の総本山
http://souraku.net/forest/kourai_temple/index.html
…1978年(昭和53年)に、本堂ができました。 高麗寺は、日本に住む韓国人、または在日二世の心のよりどころとして開かれました。

 なぜ童仙房で? 以前、管長に聞いた話ですが、奈良時代、平城京の頃、鬼門の方角(北東)に災いを鎮めるための寺院があったと韓国の文献に記されているそうです。そのことは、日本の文献には記されていません。管長はその歴史をたどって場所を探し、奈良から北東に当たる童仙房へ行き着いたのだということです。…

この仙の森というホムペ内の地図に拠ると童仙房の9番が小字牛場辺りにも見える。
http://souraku.net/forest/map/pdf/dosenbo_map.pdf

476とはずがたり:2019/09/08(日) 09:48:40
>>475
暫く行くとまた分岐。順路はR163へ出るらしい。上の地図に拠るとこれは野殿道というようだ。
ここは一時的に童仙房から野殿に入るらしい。
現地を走っていた時はほぼ地図を参照せず盲滅法で走っていたのでR163走行を成る可く減らすという観点からこっちの太い方を忌避。

暫く進み,三叉路を曲がり(右折は行き止まりとあったが地図で確認するとその通りであった。あと少しで和束町の湯船へ抜けられそうなんだけど),暫く進むと廃小学校等が現れやっと童仙房の中心部が近くなってきた様である。

廃小学校は時計が8時で止まっていて一寸不気味な印象。だが帰って調べてみると活用されてるようだ。

●野殿童仙房生涯学習推進委員会
http://souraku.net/manabi/about/aim.html
Q1 京都大学大学院教育学研究科が野殿・童仙房地区で生涯学習の研究と実践を始めた経緯を教えてください。

A1 概要は、2006-7年の「活動一覧」として図表にしておきましたから、そちらをご覧ください。まったくの偶然が重なったとしか言いようのない出会いから出発しましたが、研究フィールドを探していた大学と地域の将来について危機感を持っていた地域双方の想いが合致してここまで来られたのだと思います。

Q2 具体的にはどのようなことでしょう。

A2 京都府相楽郡南山城村の旧野殿童仙房小学校が平成18年3月末で閉校になりました。この旧小学校を拠点としながら新しい教育空間を作ることを目指して活動を始めました。川崎良孝教育学研究科長と中村富士雄野殿区長、西村秀俊童仙房区長が生涯教育に関する協定に調印したのは、2006年6月23日のことです。

Q4 地域の歴史を教えてください。

A4 野殿は古くからある土地ですが、反対に童仙房は明治時代に拓かれた開拓村です。1969(昭和44)年に童仙房開拓百周年を迎えました。今なお開拓の気風が残っており、京大との提携を明治時代の開拓、戦後の開拓についで、第三次開拓の時代にしようと意気込む地域住民もいるほどです。

という事で気になってる童仙房だが明治期の開拓で出来た新しい村だと云う事が一旦判明,しかし明らかにその辺の地名とは違う地名にそれだけで終わる訳も無く,調べてみるとなかなか面白い。この高麗寺の由来となっている日本の文献には記されていない,韓国の文献に記されているという奈良時代、平城京の頃、鬼門の方角(北東)に災いを鎮めるための寺院ってのはこの土千房ちゃうの??平安京の比叡山的なものが早良親王の祟りだから平安時代になると直ぐに燃やされてしまって大寺院として残ってないから全て散逸してしまったのか?

南山城村の歴史(童仙房)
https://kyoto-mura.jp/village/history-dosenbo/

古代の伝説(地名の由来)
6世紀の終わりごろ、奈良に平城京ができるより100年あまりも前のこと。飛鳥の地に日本で初めての本格的な寺院ができました。現在の元興寺(奈良市)の前身で、法興寺といい、現在は飛鳥寺とよばれています。

その落慶式のおり、現在の井手町あたりに住む人たちも参詣し、その場で仏法伝受を受け、僧となりました。その1人が、自分もいつか立派な寺を建てたいものだと願い、それにふさわしい地を訪ね歩きました。

現在の南山城村大河原へやってきて、宿に泊まりました。すると、北西の方向に金色の光が見えるではありませんか。夜が明け、北西の高台へ登ると、天から紫雲たなびき美しい童子が現れ、「あなたは、徳の高い僧です。私は帝釈天の使いです。ここに寺院をお建てなさい」と告げるやいなや、消えてしまいました。

これはありがたいお導きだと、この地に大きなお寺を建て、多くの僧が集まり、お堂が1000ほども作られ、「堂千房」転じて「土千房」と呼ばれ、栄えました。

200年の時がうつり、世は平安京となりました。都のお公卿さん、藤原是公がたびたび土千房を訪れ、地元の早瀬女という女との間に男の子をもうけました。都では、無実の罪で処刑された早良親王をおとしいれたのが、藤原是公たちだと噂され、早良親王の祟りを怖れていましたが、その子がここにいる、ということで、村の人たちは怖れおののき、承和10(843)年12月7日朝に村人たちが集まって、土千房へ火を放ち、大伽藍坊舎とも、ことごとく焼き払いました。

その後は歴史の空白

この伝説は古文書に記されたものですが、真偽のほどはわかりません。明治の開拓時に瓦が多数出てきたとの記録もありますが、この伝説との関係は不明です。

童仙房に関して、江戸時代に入るまで、歴史は何も残っていません。歴史の空白地帯です。

477とはずがたり:2019/09/08(日) 17:22:52
>>474-477
南山城村の歴史(童仙房)の続き(>>476)

江戸時代の領土争い

確認できる歴史に童仙房が登場するのは、江戸時代に入ってからです。
江戸時代には、柳生藩、藤堂藩、御料が、童仙房地の所領を主張して争い、正徳4(1714)年、京都町奉行所の法廷に持ち込まれ、いずれにも属さない土地、すなわち空白地帯とされました。

明治の開拓
明治に入り、廃藩置県後、童仙房は京都府に組み込まれました。

明治2(1869)年、京都府は、童仙房の開拓を府の官営事業として行うことを決めました。官吏・市川義方を開拓責任者とし、労働者を雇用して、道路をつくり、荒れ地を開墾し、住居(三軒長屋)をつくりました。まったくの未墾の地に入植させたのではなく、ある程度まで住居や農地を用意してから入植者を募りました。

明治4(1871)年6月、開拓が完成し、162戸、560人が居住したと報告されました。これをもって、童仙房村が成立しました。

明治5(1872)年には、京都府支庁が童仙房へ移されましたが、交通の便の悪さが支障となり、7年後には童仙房支庁が廃止されました。この間、役所の他、警察署や郵便局も童仙房に置かれ、にぎわいを見せました。…大規模に開拓され、一時期、文化の中心地として繁栄したものの、童仙房支庁廃止後は、純農村となり、最盛期には200戸余りだった住民が減少の一途をたどりました。

過去探訪以上。

<童仙房〜杣田〜木屋>
不愉快な安藤のポスター等が現れる。此処で四通八通している
https://www.google.co.jp/maps/@34.7996937,135.9751292,3a,75y,290.33h,92.56t/data=!3m9!1e1!3m7!1sXLEdpHME5O-RnzjZdFSLYQ!2e0!7i13312!8i6656!9m2!1b1!2i44

現地には看板が出てたけどどこがどうなってるのかさっぱり要領を得ない。。。

帰って来て色々な地図と凸合させてみてやっと把握出来たが,先ほどの仙の森のpdf(>>475)だと野殿道となっていた道路が,この看板だと大河原多羅尾線(村道名?)になっていてしかも通行止め,大河原道が大河原東和束線(村道名??)となっていて通行可能なようだ。
三国越林道の方が太く書かれているし,現地でも良さそうな道路だったが方向感覚がずれていた。兎に角野殿の中心を避けて一本北の細い道路を選択したってことのようだ。

ここからどこに向かうか迷ったが,基本は和束に出てr5木津信楽線に出るのが基本戦略である。当てずっぽうで童仙房の奥の方と思われる方へ向かう。子供なんて殆ど居ないんだろうなあと云いながら進んでくと自販機の処に女の子が立っていた。

その後,一寸した分岐はあるものの,順路っぽい道路を選択してずんずん進む。

帰宅後地図で確認すると横川沿いにR163に抜けられる道路があったようで,その道路は割とスムーズ(ヘアピンが少ない)っぽかった。一部の地図では一部破線となっていたが一度試してみたい。

兎も角,三国越林道の続きと思われる道路が続き,切山へ降りる道を分ける三叉路があり,尚も直進し山の中をくねくねと走るとr62宇治木屋線に至る。杣田から和束中心部更には井手へ抜けるのも手だったが,山道にお腹いっぱいになっていたのでr62を木屋に降りてR163に入って帰って来た。。


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