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掛川・懸河・佐野

109荷主研究者:2012/06/15(金) 00:16:42

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120527/CK2012052702000157.html
2012年5月27日 中日新聞
掛川・大日本報徳社の整備大詰め

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◆尊徳の教え後世に

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クレーン車に引かれ、西方向に水平移動される木造2階建て寄せ棟造りの「仰徳学寮」。右奥は掛川城=26日、掛川市で

 まきを背負って本を読む少年の像でおなじみの二宮金次郎(尊徳、1787〜1856年)ゆかりの大日本報徳社(掛川市掛川)で、明治期に建てられた皇室建築、近代和風建築の修復・移転工事が進められている。敷地内を庭園化して、隣接する掛川城公園などと併せて教育文化ゾーンにする計画で、来年3月の完成を目指す。26日から建物を水平移動させる曳屋(ひきや)作業が始まり、18年かけて総事業費7億円に及んだ“平成の大修復”は大詰めを迎えた。

 同報徳社の敷地四千二十平方メートルには、事務所のほかに、明治初期から昭和戦前までに新築、移築された五棟がある。

 平成の大修復は、一九九四年の調査から始まった。二〇〇〇〜〇一年に、鉄筋コンクリート造りの図書館では県内最古の報徳図書館(一九二七年築、県指定文化財)が、〇四〜〇八年には木造二階建て入り母屋造りの大講堂(一九〇三年築、国重要文化財)が全面修復された。

 今年三月に再開した工事では、東京の旧有栖川宮邸の一部が移築された「仰徳(こうとく)学寮」(一八八四年築、市指定文化財)と、「仰徳記念館」(同)のうち、仰徳学寮を北西方向に移転。併せて、尊徳の高弟・岡田良一郎の私塾だった「冀北(きほく)学舎」(一八七七年築、同)など三棟の耐震性向上などに力を入れる。

 事業費は、図書館に一億円、大講堂に四億五千万円、今回の三棟には一億五千万円を要した。各文化財の由来は異なるが、多くの人に親しんでもらえる施設に、という関係者の熱意は同じ。来春には報徳運動の新しい拠点としてよみがえる。

◆榛村純一社長「価値ある空間に」

榛村純一社長

 大日本報徳社の榛村純一社長(77)に平成の大修復への思いなどを聞いた。

 −大修復が終盤を迎えました。

 「仰徳学寮と記念館は、今はほとんどなくなった宮廷建築。敷地内の建物はいずれも建築史的な価値が高く、報徳社の伝統の豊かさを示している」

 −完了後はどうなるのでしょうか。

 「建物の配置や環境が一新され、価値ある精神的な空間に生まれ変わる。全国から人々が訪れ、感ずるものがあればいいし、報徳運動の拠点として、もう百年輝き続けたらいいと思う」

 −報徳の教えについて。

 「中国の知人から『日本は大丈夫?』と聞かれると、まきを背負って本を読む金次郎の姿を、日本人が忘れなければ大丈夫と答えている。農村社会が減って、ツールとしては古くなったかもしれないが、教えそのものは今も完全に生きている」

(佐野太郎)

大日本報徳社 道徳と経済の融和などを説いた江戸末期の農政家・二宮尊徳の報徳の教えを普及するために継がれてきた社団法人。尊徳から教えを受け、現在の掛川市で活動していた岡田佐平治が1875年、前身の「遠江国報徳社」を現在の浜松市中区に創設。その後、息子の良一郎が掛川市に移し、1911年に大日本報徳社に改名した。報徳の教えは各地に拡大、松下幸之助や豊田佐吉など明治の財界人に影響を与えた。その活動が隆盛を極めたのが遠州地方で、歴代社長には宮内大臣を務めた一木喜徳郎、侍従次長や参院議長を務めた河井弥八らがいる。現在の榛村純一氏は8代目。


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