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生駒・寧楽・北倭

161とはずがたり:2013/03/20(水) 17:52:55

小椋(おぐら)山→椋嶺峠(くらがねごえ)→暗峠(くらがりとうげ)か。

奈良街道は大和街道とも。

最短ルートは現在第二阪奈に活かされてると云う訳か。

暗越(くらがりごえ)奈良街道について知りたい
http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/63faq.html

 暗越奈良街道とは、大阪と奈良を結ぶ旧街道であり、現在の国道308号線、大阪府道・奈良県道702号線がこの街道をほぼ踏襲しています。江戸時代、伊勢参詣や商人の往来、大名参勤などにさかんに利用されました。
 江戸時代、街道の起点の玉造では、道の両側に“つる屋”“ます屋”の二軒の茶屋が向かい合って建っており、旅立つ人々がそこで別れを惜しみました(明治時代には起点は高麗橋となりました)。“二軒茶屋”の名で親しまれ、その様子は『浪華の賑ひ』*1の図版で見ることができます。現在、玉造駅の東側に、二軒茶屋跡の石碑が建っています(東成区東小橋一丁目)。 また、当時この街道を通って伊勢参詣に向かう人は、深江の名産として名高い菅笠を買うのがならわしでした。深江稲荷神社の門前には、“深江菅笠ゆかりの地”の大阪市顕彰碑があります(東成区深江南三丁目)。二軒茶屋、深江の菅笠は、上方落語の代表的な演目「東の旅」の一連の噺の発端部分にも登場します。

 奈良街道には、“暗越奈良街道”と“竜田越(たつたごえ)奈良街道”の2ルートがあり、“暗越奈良街道”は“暗峠(くらがりとうげ)”を越えるためそう呼ばれました。“暗峠”の名は、当時この付近を小椋山といい、峠を“椋嶺峠(くらがねとうげ)”と呼んだのが転じたとも、樹木がうっそうと茂り、昼なお暗かったためともいわれています。松尾芭蕉がこの峠を通った時によんだ「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑が、街道沿いの勧成院(かんじょういん)内と、そこから少し上ったところの2か所にのこされています(どちらも東大阪市内)。
 この街道は、大阪と奈良を最短距離で結ぶ道だったため、峠付近は急な坂道にもかかわらず、宿屋や茶屋が軒を連ねて大変にぎわいました。暗峠のにぎわう様子は、『河内名所図会』*2の図版で見ることができます。しかし、1914(大正3)年の大阪電気軌道(近鉄奈良線の前身)開通など、交通網の発達により、しだいにさびれていきました。


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