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重工業・造船・航空機スレッド
1154
:
荷主研究者
:2021/02/04(木) 22:57:17
https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/202101/0013996680.shtml
2021.01.11 神戸新聞
「空飛ぶ船」国内唯一のメーカー 飛行機づくりの灯ともし続けた100年
翼から吹き出す空気で揚力を得ながら離水するUS-2型救難飛行艇=兵庫県・芦屋浜沖(新明和工業提供)
航続距離の長さを生かし、偵察や輸送で活躍した二式飛行艇(新明和工業提供)
戦局の悪化を受け、水上機をもとに開発した局地戦闘機の紫電改(新明和工業提供)
航空機製造の経験を生かし、戦後に開発したポインター・エンジンを搭載した自転車。戦後の一時期、新明和工業はバイクの最大手メーカーだったという(新明和工業提供)
新明和工業はごみ収集車の国内最大手。創業100周年を記念して地元の宝塚市に寄贈した車両。投入したごみの流れが見えるように胴体部が透明になっており、児童の環境学習に使われている=兵庫県宝塚市小浜1
水上で離発着できることから、「空飛ぶ船」との異名を持つ航空機「飛行艇」。国内唯一の飛行艇メーカーである新明和工業(兵庫県宝塚市)が2020年、創業100年を迎えた。滑走路のない離島や海難事故現場から、千人超の急病人やけが人を搬送してきたユニークな機種を、同社はどんな経緯で手掛けるようになったのか-。1世紀にわたる航空機造りの軌跡をたどった。(長尾亮太)
第1次世界大戦が終息しつつあった1918(大正7)年5月。日本毛織社長の川西清兵衛は、群馬の実業家と飛行機製作の会社を設立した。協力相手は中島知久平(ちくへい)。自動車メーカーのSUBARUの前身、中島飛行機の創業者である。
もともと中島の飛行機開発を資金面で支えてきたのは、神戸の米穀肥料商だった。ところが、経営に行き詰まり、清兵衛はその事業整理を引き受けた縁で中島の動きを知ったのだ。「これからは飛行機の時代だ」。大戦で初めて戦線に投入された飛行機が注目される中で、その好機を逃さなかった。
中島と意見が食い違い、わずか1年8カ月で決別したものの、群馬から引き揚げてきた若い技術者たちが「もう一度、飛行機をやらせてほしい」と清兵衛に懇願。毛織物の増産に向け、20年に発足させたばかりの繊維機械メーカー「川西機械製作所」の倉庫で、飛行機づくりが始まった。
赤字を出しながらも技術を磨き上げ、清兵衛は28(昭和3)年11月、川西機械の飛行機部を「川西航空機」として独立。翌月に海軍の指定工場となり、新たな大口納入先を手にした。海軍の要請に応じ、水上で発着できる機体を開発するため、海に面した西宮・鳴尾に本社工場を移した。当時は大型機の着陸に耐えられる「脚」の部品や滑走路の造成技術が未熟で、機体への負担が軽い水上での発着が求められたからだ。
胴体下部が船体となって水面に浮かぶ飛行艇に初めて携わったのは31年。海軍が英国から調達した機種の分解・組み立てを川西航空機が任されたのだ。このとき英国人から教わった技術が、後の飛行艇開発の礎となった。川西航空機は「九七式」「二式」と呼ばれる自社開発機を投入。長い航続距離と輸送力を生かし、南太平洋で偵察や兵士、物資の輸送に珍重された。
ところが、太平洋戦争で飛行艇の需要は縮小する。戦況悪化で本土攻撃の恐れが強まると、航続力の長さは意味をなさなくなった。「代わりに戦闘機が必要になる」と見定めた川西航空機は42年に「紫電」を、翌年には改良版の「紫電改」を生み出した。最新鋭の強力エンジンを載せたところ、高い性能を発揮した。零戦の後継機として海軍は国内で生産する戦闘機を紫電改に絞ったが、8月の終戦が迫るタイミングだった。
「年1、2機のハイペースで新型機を開発した戦時中は、飛行機製造の技術が目覚ましく進歩した」。飛行艇や戦闘機の主任設計者を務めた故菊原静男さんは、戦後の後輩に向けた講義で胸を張った。ただ、送り出した機体は戦争に使われたため、表情はどこかもの悲しさを帯びていたという。
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