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重工業・造船・航空機スレッド

1007とはずがたり:2018/05/22(火) 20:25:21

グレン・カーチス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9

グレン・カーチス(Glenn Curtiss、1878年5月21日 - 1930年7月23日)は、アメリカ合衆国の航空に関するパイオニアであり、現代の航空機メーカーのひとつカーチス・ライト・コーポレーションの礎となったカーチス・エアロプレーン&モーター社の創業者でもある。カーチスはその履歴において、特許を巡って争ったライト兄弟最大のライバルとして知られてもいる。

ライト兄弟との係争
飛行テストに先立つ1908年6月20日、ライト兄弟はカーチスに対し「ジューン・バグ」が兄弟所有のたわみ翼の特許を侵害している旨の警告書を送っていた。しかし事実上これを無視し、1909年3月20日にカーチスは自身の航空会社ヘリング・カーチス社を設立して飛行機の製作を開始した。8月にライト兄弟は提訴、1910年1月の裁判でカーチスは敗訴し会社は倒産の憂き目を見た。しかし6月の控訴審で判決は覆り、会社は再興された。

さらに1914年、ライト兄弟と抗争状態にあったスミソニアン博物館のチャールズ・ウォルコットと手を組み、カーチスは1903年に失敗したサミュエル・ラングレー製作の飛行機「エアロドローム」を水上機に改造し、6月2日に飛行試験を成功させた。これはカーチスにとっては特許紛争を有利に運ぼうと、ウォルコットにとってはラングレーの名誉を回復するために画策されたものだった。しかしながらカーチスによるこの「改造」は、ほとんど原形をとどめない程に徹底したものであり、これをもって「ラングレーはライト兄弟よりも先に飛行可能な機体を開発していた」と主張する事は不当であると後に認められている。

その後もカーチスとライト兄弟の争いは続いたが、1917年の第一次世界大戦への参戦を契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協会が設立され、同協会による航空機関連特許の集中管理が実施された事で終止符が打たれた。その背景には軍事用として飛行機が注目されていたことがあった。カーチス自身、1910年には既に彼が製作した「ゴールデン・フライヤー」号改良型が偵察巡洋艦バーミンガムから初の艦載機離陸を成し遂げており、1911年には飛行艇を完成した功績を認められ、第1回コリアーズ賞を受賞していた。1917年、カーチスは陸軍用戦闘機の製造に関する契約をアメリカ政府と結んだ。

1929年、カーチス設立の航空会社(当時の社名は、カーチス・エアロプレーン&モーター社)とライト兄弟設立の会社(同、ライト・マーチン社)は合併し、カーチス・ライト・コーポレーションが設立された。


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