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古代日本史スレ

1とはずがたり:2005/07/20(水) 18:15:28
縄文・弥生・古墳・奈良・平安前期ぐらいまで。
平安後期以降は日本中世史スレhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036414406/l10

108とはずがたり:2014/08/24(日) 09:18:23
蘇我氏の吉備進出?!

奈良・都塚古墳に似た「階段ピラミッド状」、岡山にも?
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140822526.html
産経新聞2014年8月22日(金)14:03

 蘇我稲目(いなめ)の墓の可能性が高く、特異な階段ピラミッド状の古墳とわかった奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。これによく似た古墳が岡山県北部の真庭(まにわ)市にある。平成5年などに調査された「大谷1号墳」(7世紀後半、国史跡)で、5段築成の見事な方墳だ。

 大谷1号墳は都塚古墳から約100年あとにつくられた古墳。昭和63年と平成5年に発掘調査が行われ、平成7年に墳丘が復元された。

 3段の方形墳丘部と前面2段の方形壇から成り、規模は東西12・9メートル、南北22・7メートル、最大高7・3メートル。全長6メートルの横穴式石室を持ち、内部には陶棺がおさめられていたとみられる。

 発掘調査では双龍環頭(そうりゅうかんとう)大刀(長さ約1・1メートル)や、儀式用の武具「儀仗(ぎじょう)」の頭部と推定される金銅製品など、豪華な副葬品が出土。吉備(きび=現在の岡山県)を治めるため大和朝廷が派遣した「吉備大宰(たいさい)」(吉備総領)の墓とも考えられている。

 だが真庭市教委によると、大谷1号墳は斜面にあり、後側には階段状の構造がないという。都塚古墳のように、全面が階段状の造りとは異なっている。

109とはずがたり:2015/05/02(土) 06:09:59
天台宗は密教ではなかったのか。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AF%86
日本天台宗と密教

天台宗は法華経を所依、つまり根本経典としているため、顕教(釈迦が一般にわかりやすく説いた教え)とされているが、最澄(伝教大師)は天台教学とともに、密教(中期密教)・禅(北方禅)・念仏(浄土教)を日本に持ち帰っており、さらには9世紀の中ごろ円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)が唐に渡って中国密教を本格的に学んだことから、日本の天台宗は密教を包含した。日本天台宗に伝わる密教を台密と呼ぶ。

110とはずがたり:2015/06/22(月) 12:45:56
渡辺綱の威光すげえw
因みに金太郎も大人になって頼光の四天王になって酒呑童子退治してた筈。
鬼も鬼だ。渡辺でもせめて名前が漢字一文字の奴(嵯峨源氏の特徴)以外は襲っておけよww

【衝撃事実】全国の渡辺さんは節分で豆まき不要! 伝承により証明されている
http://getnews.jp/archives/1009644
DATE:2015.06.21 20:55 バズプラスニュース Buzz+

2月3日は節分の日ですよね。皆さんも「鬼は外! 福は内!」と言いながら、豆まきをしたことがあるのではないでしょうか? 豆を投げることで鬼(邪気)を追い払い、幸せを願う行司です。

・豆まきをする必要がありません
家族でやっても楽しいですし、同僚と、同級生と、リア充仲間とやっても楽しいですが、渡辺さんだけは、豆まきをする必要がありません。渡辺さんは、節分でもいつもと変わらず普通に生活しましょう。

・渡辺さんに腕を切り落とされた鬼
伝承によると、鬼の中でも戦闘力が高い「酒呑童子」を追い払った人物こそ、渡辺さんだったのです。命からがら逃げてきた酒呑童子は、渡辺さんを恨み、改めてブチ殺しに行きましたが、返り討ちに遭い、腕を切り落とされてしまいました。

・渡辺さんには鬼はやってこない
なんとか逃げ切った酒呑童子は、鬼の仲間たちに「渡辺ってすげぇ強いヤツがいるから手を出すんじゃねーぞ! 見てみろ、俺の腕を!!」と話し、鬼の間で「渡辺はヤバイ」ということになったそうです。つまり、渡辺さんには鬼はやってこないので、豆まきしなくてもよいのです。

・渡部渡邊渡邉でも同様
渡辺という漢字でなくとも、渡部、渡邊、渡邉などでも同様です。皆さん豆まきの必要はありません。しかし、旧姓が渡辺の人は効力が消えているので、豆まきの必要があると思われます。

111とはずがたり:2015/09/30(水) 13:35:52
古代東洋史も此処にしよう。

中国人はなぜルールを守らないのか?3000年前の石碑が伝える真実―中国
レコードチャイナ 2015年9月29日 19時57分 (2015年9月30日 13時22分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150929/Recordchina_20150929054.html

25日、新華毎日電訊は記事「中国人はなぜ道理に従わないのか」を掲載した。ルールを守らず、道理に従わない中国人。その背景には数千年間変わらない社会の構造があるという。(Record China)

2015年9月25日、新華毎日電訊は記事「中国人はなぜ道理に従わないのか」を掲載した。

ある友人が列に並んでいると、割り込もうとする一団にでくわした。「恥ずかしくないのか」と問い詰めたところ、「今のご時世、恥なんか気にするものか」との反論。中国ではこうした話は日常茶飯事だ。誰も道理に従おうとしないのだ。

いつから中国はこうなったのだろうか?興味深い話がある。陝西省から発掘された、約3000年前の石碑に次のような記録が残されている。ある下級官僚が上司が不正に自分の財産を奪っていると、上級政府に訴えた。政府は事件を解決するためにある官僚を派遣したが、不正をただすどころか、上級政府に訴えた下級官僚の越権行為を批判し罰金を取ったのだった。この「勝利」を喜んだ上司がわざわざ石碑に話を残し、現代にまでこの物語が伝わっている。

問題があっても裁判など調停による解決ができない。お上に頼っても公平な裁きが得られるとは限らない。数千年間続く中国社会が中国人特有の思考を作り上げている。道理を正そうとせず、無実の弱い者に面倒を押し付けてしまうのだ。そうであるがゆえに、自分の間違いを認めるわけにはいかない。公正な裁きがないのに自分から間違えを認めても損をするだけだ。

文明と知識は歴史とともに蓄積されていくもの。今の中国に蓄積がないのは私たちの責任ではなく、ご先祖のせいだと言えるかもしれない。だが今積み重ねを始めなければ、未来の中国人は現在の中国人をののしることになるだろう。(翻訳・編集/増田聡太郎)

112とはずがたり:2016/05/29(日) 21:07:11

あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ ここまでわかった!「日本史」の最新常識
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%81%82%e3%81%ae%ef%bd%a2%e8%81%96%e5%be%b3%e5%a4%aa%e5%ad%90%ef%bd%a3%e3%81%8c%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a7%bf%e3%82%92%e6%b6%88%e3%81%99%e3%83%af%e3%82%b1-%e3%81%93%e3%81%93%e3%81%be%e3%81%a7%e3%82%8f%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%ef%bc%81%ef%bd%a2%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%8f%b2%ef%bd%a3%e3%81%ae%e6%9c%80%e6%96%b0%e5%b8%b8%e8%ad%98/ar-BBtrOeb?ocid=spartandhp#page=1
東洋経済オンライン
山岸 良二
2016/5/24

 かつて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けてきた『大学への日本史』である。

 作家の佐藤優氏も、外交官時代、「座右の書」として肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた。その学習参考書が今回、装いも新たに『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』、『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。

 特長は、リニューアル復刊にあたって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容にはなかった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ、「いま使える内容」になっていること。

 本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介していく。

 誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」。ところが近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼすほどに拡大しています。教科書を見ても、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。

 いったい「聖徳太子」はいたのか、いなかったのか? よく聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。

Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?
 いました。でも、その前にひとつ確認しておきましょう。「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、「いた」となります。

Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。
 ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。

 たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。
 「厩戸王(うまやとおう、574〜622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。

Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?
 彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。

 冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
 聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。

 もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

113とはずがたり:2016/05/29(日) 21:07:26
>>112-113
Q6. 憲法十七条はあったのですか?
 ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。

Q7. 冠位十二階はあったのですか?
 ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。

Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?
 ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。

 遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
 わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

 厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。

 そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。

 こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

 後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。

 今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。

 (旧)聖徳太子 → (新)厩戸王(聖徳太子)

 現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)でも、「厩戸王(聖徳太子)」と表記されていますが、次の教科書検定で改訂されるときには、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます(脚注では言及される見込みです)。

 今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられていくことでしょう。

Q.ありがとうございました。最後に、「10人の話を〜」は本当ですか?

 10人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「10人の話を1人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った」というのがどうやら実態のようです。いずれにせよ、こうした伝説が後世、より彼(聖徳太子)のイメージを肥大させることとなった一因でしょう。

 一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も、非常に優秀な人物だったことはまず間違いありません。

114とはずがたり:2016/06/25(土) 19:51:15
高槻迄行ったら偶々伝能因法師墳http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/naraheian/1327404300803.htmlを見つけて行ってみる。郊外のこんもりとした木立の中の墳墓でなかなか良かった♪百人一首は生駒が舞台であった。斑鳩バイパスの分岐する三室が三室の山なんかな?


【橘】
諸兄

奈良麻呂

島田麻呂
├長谷雄
└常主・参議
  |
  (略)
  |
忠望・近江守
 ├元愷・肥後守
 └永愷(ながやす)能因法師─元任

能因法師
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%9B%A0
能因(のういん、永延2年(988年) - 永承5年(1050年)あるいは康平元年(1058年))は、平安時代中期の僧侶・歌人[1]。俗名は橘永愷(たちばな の ながやす)[1]。法名は初め融因。近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に橘元任がいた。中古三十六歌仙の一人[2]。

初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。和歌に堪能で、伊勢姫に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部にさだめ[3]、古曽部入道と称した。藤原長能に師事し、歌道師承の初例とする[2]。和歌六人党を指導する一方、大江嘉言・源道済などと交流している。甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの和歌作品を残した。

あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり(69番:「後拾遺集」秋・366)

伊勢姫はwikiではリンクが間違ってて本来はこちら:

伊勢(歌人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2_(%E6%AD%8C%E4%BA%BA)

伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)は平安時代の日本の女性歌人。。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。

はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地に庵を結んで隠棲した[1]。

中務
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%99
中務(狩野安信『三十六歌仙額』)
中務(なかつかさ、912年(延喜12年)頃 - 991年(正暦2年)頃)は、平安時代中期の女流歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。父は、宇多天皇の皇子敦慶親王で、親王が中務卿であったことから、この名がついている。母は、女流歌人の伊勢。異母兄弟に刑部卿源後古、源方古がいる。

115とはずがたり:2016/09/01(木) 13:33:19
(異議あり)「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない 考古学と社会の関わりを研究する山田康弘さん
http://www.asahi.com/articles/DA3S12534084.html?iref=com_favorite_03
2016年8月30日05時00分

 あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。

 ■「貧しい」「自然と共生・平等」…世相映してイメージ180度変化

 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。

 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」

 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」

 ――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。

 「ただ、まだ『縄文時代』『弥…

116とはずがたり:2016/09/04(日) 10:22:04

日本人のDNA、縄文人から12%受け継ぐ
http://www.yomiuri.co.jp/science/20160902-OYT1T50026.html?from=yartcl_blist
2016年09月02日 09時59分

 現代の日本人は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることがわかったと、総合研究大学院大の斎藤成也教授らの研究チームが発表した。


 特に、北海道のアイヌや沖縄県の琉球人は、遺伝的に縄文人と近いことも判明したという。人類遺伝学の専門誌に1日、論文が掲載された。

 チームは、福島県新地町の三貫地さんがんじ貝塚から出土した、約3000年前の縄文人男女2体の歯を調べた。微量のDNAを抽出することに成功し、現代人のDNAと比較した。

 その結果、縄文人のDNAはアイヌと最も近く、次に琉球人、その次に東京周辺など本土の日本人「ヤマト人」に近かった。

 また、縄文人は、アフリカから東アジアや東南アジアに移動してきた現生人類の中で、最も古い2万〜3万年前に分岐した集団とみられることもわかった。

(ここまで345文字 / 残り233文字)
2016年09月02日 09時59分

117名無しさん:2016/10/02(日) 10:34:59
記者発表一覧
記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html

118とはずがたり:2016/10/05(水) 20:38:36

平城京にペルシャ人の役人か 8世紀の木簡に記述
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161005/k10010718871000.html?utm_int=all_side_ranking-social_001
10月5日 19時31分

奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡に、ペルシャ人とみられる人物が役人として働いていたことを示す記述があることがわかりました。調査した奈良文化財研究所は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す、貴重な資料だ」としています。
木簡が見つかったのは奈良時代の都、平城京の中心部、平城宮跡の南東にあたる場所です。
奈良文化財研究所によりますと、50年前の発掘調査で見つかった木簡を、ことし、赤外線を使って調べたところ、「破斯清通」(はし・きよみち)という人名が記されていることがわかりました。

「破斯」という名字は、ペルシャを意味する漢字「波斯」と読み方が同じことから、木簡に記された人物はペルシャ人とみられるということです。
また、この木簡は役人を養成する役所、「大学寮」の宿直勤務の記録だったことから、この人物が平城京の役人だったこともわかったということです。

古代の歴史書「続日本紀」には、736年、遣唐使が連れ帰ったペルシャ人が聖武天皇と面会し、その後、位を授けられたという記述があります。
研究所は、このペルシャ人は木簡に記された人物と同一人物の可能性があるとしています。

ペルシャ人とみられる人物の名を記した遺物が出土したのは全国で初めてで、木簡を分析した奈良文化財研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す貴重な資料だ」と話しています。
この木簡は平城宮跡資料館で開かれる展示会で来月1日から公開されます。

119名無しさん:2016/10/07(金) 01:18:21
>>118
クビライハンもペルシア人官僚を使ってましたよね、確か。

120荷主研究者:2016/11/12(土) 19:53:45

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201610/20161030_15028.html
2016年10月30日日曜日 河北新報
<史都再興>半世紀の調査成果次々

新たに発見された創建期の外郭南門の城壁跡を公開した現地説明会=9月、多賀城市市川

 宮城県多賀城市の多賀城跡が、多賀城廃寺とともに国の特別史跡に指定されて50年を迎えた。当初蝦夷(えみし)経略の基地と考えられたが、これまでの調査で古代東北の政治・軍事の中心地だと分かった。多賀城市では「外郭南門」の復元計画の機運が高まる一方、県も新たな整備計画を策定。史都再興に向けた動きが出ている。(多賀城支局・佐藤素子)

◎多賀城・特別史跡指定50年(上)積み上げ

<「鎮守府」が存在>
 今年2月、多賀城跡を調査する県多賀城跡調査研究所(多賀城市)は、政庁南側で鎮守府を示す「府」と書かれた文書箱のふたを新たに発見したと発表した。

 軍政を担う役所である鎮守府の存在が、同時代の遺物で明らかにされた。研究所の須田良平所長は「鎮守府の所在地の特定に近づく発見だ」と意義を語る。

 かつて多賀城跡は、朝廷の支配に従属しない蝦夷の反乱に備えた「とりで」と見られていた。1960年に始まった県教委と当時の多賀城町、河北文化事業団による調査によって政庁が軍事と政治をつかさどる国府級の建物配置だったことが明らかになり、66年に特別史跡になった。

 仙台平野が一望できる多賀城市北部の政庁跡がある市川地区と浮島地区を中心に指定され、指定範囲は追加分も含めて107ヘクタール。これを調査する研究所は69年に発足。本年度までに90次に及ぶ発掘調査によって、多賀城跡が約900メートル四方の堅固な城郭施設(外郭)で囲まれた国府跡で、政庁で4期にわたる変遷があったことを突き止めた。

 2009年以降は、多賀城市が多賀城のシンボルとして、2024年の創建1300年に合わせて計画する「外郭南門」の復元に向けた調査を実施。「政庁から外郭南門周辺までの建築は、かなり確定できた。最盛期の多賀城は規模も格式も上がり、蝦夷に朝廷の威容を示す場になっていた」と吉野武上席主任研究員。18年度以降は発見されていない創建期の外郭西辺と北辺を探す調査が始まる。

 研究所で調査にかかわり、東北歴史博物館長や県文化財保護課長を務めた進藤秋輝さん(72)は「成果を残せたのは地元の行政と住民が力を尽くしてくれたおかげ」と振り返る。

<完了分 まだ11%>
 約19.8平方キロの多賀城市には、特別史跡を含めて42カ所の遺跡が確認されている。79年に市教委は文化財専門職員を採用し、87年には県内初の埋蔵文化財調査センターを設置。研究所の協力を得ながら特別史跡外の調査を進めた。

 政庁から延びる南北大路と交わる東西大路、区割りされた平安時代初期の街並みや国司館(役人の住まいで行政なども行った)跡などの存在も市教委の調査で突き止め、多賀城が都に並ぶ重要都市だったことを浮き彫りにした。

 ただ、50年近い調査でも特別史跡の調査完了分は全体の11%。進藤さんは「創建期の外郭の様子や塩釜とを結ぶ奈良時代の道の存在など、多賀城には未解明な部分がまだある」と話す。

【国指定特別史跡】
 歴史上重要な施設などで学術上価値が高いと認められた遺跡「史跡」のうち、特に価値の高いものを「特別史跡」に指定する。平城宮跡(奈良市)、大宰府跡(福岡県太宰府市)など国内に61カ所。多賀城跡は多賀城廃寺とともに指定。その後の調査で館前遺跡(有力者邸宅跡)、柏木遺跡(多賀城直営の製鉄所跡)、山王遺跡千刈田地区(国司邸宅跡)が追加指定された。

121荷主研究者:2016/11/12(土) 19:54:04

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201611/20161101_13025.html
2016年11月01日火曜日 河北新報
<史都再興>南門復元で観光交流を

多賀城外郭南門の復元イメージ図(多賀城市教委提供)

◎多賀城・特別史跡指定50年(下)地域活用

<他の史跡と大差>
 古代東北の政治、軍事の中心が置かれた多賀城跡(宮城県多賀城市)は、奈良市の平城宮跡、福岡県太宰府市の大宰府跡とともに「日本三大史跡」と称される。しかし、歴史を象徴する建造物や観光交流施設はない。来訪者も研究者や歴史愛好家が中心で、知名度、観光客数とも大きく水を開けられている。

 特別史跡指定から50年の節目。長く待望論があった多賀城のシンボルともなる「外郭南門」の復元計画が大詰めを迎えている。

 計画は1989年に当時の故伊藤喜一郎市長が提唱。設計案もできたが、水害や経済情勢の変化で頓挫。2011年に国が歴史遺産のある自治体の街並み整備に助成する「歴史まちづくり法」の認定を受けたことから計画が本格化した。専門家を交えた市の復元検討委員会が、本度末までに設計案を確定する。10億円以上と見込まれる総工費の積算額も示される。

 計画に呼応し、特別史跡の調査と整備を担う宮城県多賀城跡調査研究所は今年2月、新たな整備基本計画を発表。史跡公園として整備する方針を打ち出した。

 史跡を活用したまちづくりを進めてきた市民団体「NPOゲートシティ多賀城」は県の整備計画を受けて勉強会などを重ね、史跡整備上の提言などもしている。松村敬子代表は「待ち望んだ計画。実現に協力したい」と意気込む。

<財源確保に課題>
 シンボル創出への期待は大きい。一方で、東日本大震災の津波被災地にある市は、復興事業も被災者支援も道半ば。市立図書館を核とした駅前再開発などの大型公共工事も続く。

 「財政は厳しい。さらなる大規模事業は市民の理解が得られるのか」との声が市幹部からも漏れる。就任以来、奈良市、太宰府市などと友好都市を結び、史都のシティーセールスに力を入れてきた菊地健次郎市長だが、財源問題から復元計画に慎重姿勢を崩せないでいる。「水害対策など長期的な重点政策も継続中。地域や施策のバランスもある」と思いを巡らす。

 「多賀城は市の名前に冠したまちの象徴だが、市民の実際の理解は十分とは言えない」と憂うのは市観光協会事務局長の高倉敏明さん(65)。高倉さんは市の文化財専門職第1号で、通算で25年以上、調査や史跡の公有化などを担当した。商工観光課にもいて、PRの重要性を痛感した。

 「南門復元は長年の調査と整備の集大成。多賀城への理解を進めるためにも、公有化に協力いただいた人たちのためにも、ぜひ実現させたい」と訴える。

[多賀城外郭南門]政務や儀式の中心施設だった政庁から380メートル南にあったとされる、多賀城南辺の中央に位置する多賀城の正門。762年以降は、入り母屋造りの屋根がある礎石式の八脚門で、蝦夷に中央政府の威光を示そうと、豪華な造りが採用された。市の復元計画は、間口約10.5メートル、奥行き約6メートル、高さ約14メートル。2009年には創建期の南門跡が発見された。
          ◇         ◇         ◇
 宮城県多賀城市の多賀城跡が、多賀城廃寺とともに国の特別史跡に指定されて50年を迎えた。当初蝦夷(えみし)経略の基地と考えられたが、これまでの調査で古代東北の政治・軍事の中心地だと分かった。多賀城市では「外郭南門」の復元計画の機運が高まる一方、県も新たな整備計画を策定。史都再興に向けた動きが出ている。(多賀城支局・佐藤素子)

122とはずがたり:2017/01/15(日) 19:03:24
2015.5.21 20:01
平城京出土土器に韓国の盤上ゲーム「ユンノリ」原型の文様を確認 奈文研
http://www.sankei.com/west/news/150521/wst1505210094-n1.html

 奈良市の平城京跡から出土した奈良時代の土器に描かれた文様が、朝鮮半島の伝統的なすごろく「ユンノリ」の原型とされる「樗(ちょ)蒲(ぼ)(和名・かりうち)」の盤面とみられることが分かり、奈良文化財研究所が21日、発表した。土器を盤に遊んだとみられ、担当者は「古代の娯楽に新しい事例が加わる貴重な発見」としている。

 ユンノリは、4本の木の棒を転がして出た目に応じ、コマを進めるゲーム。奈良時代には朝鮮半島から伝来したとされる。

 文様が確認された土器は直径19・6センチ。奈文研が昭和61年〜平成元年に実施した発掘調査で、長屋王邸宅跡北側で出土した。直径8センチの円と、それを6分割する点状の線が引かれ、すごろくのスタート地点とみられる「出」の字があった。

 同様の文様がある遺物は秋田県の秋田城跡や、三重県の斎(さい)宮(くう)跡など他に6点の出土例があるが、何の文様なのか不明だった。

 中国の歴史書「隋書」の倭(わ)国(こく)伝には、倭人(日本人)が囲碁やすごろく、樗蒲を好むが、禁止令も繰り返されたとの記述がある。奈文研の担当者は「ばくちや遊戯の実態に関する、考古学的解明につながる可能性がある」と話している。

123とはずがたり:2017/01/15(日) 19:03:46

2015.5.20 10:52
太閤堤の近くに弥生時代集落か 乙方遺跡の岸辺に須恵器や土師器 京都・宇治
http://www.sankei.com/west/news/150520/wst1505200024-n1.html

 史跡宇治川太閤堤跡近くの乙方遺跡の発掘調査を行っている京都府宇治市は、同市莵道の堤跡東側で、弥生時代から飛鳥時代にかけての川の跡が見つかったと発表した。川跡からはこの時代の土器の破片などが多く見つかり、市歴史まちづくり推進課は「弥生時代の集落が広がっていたのでは」としている。

 宇治川太閤堤跡歴史公園(仮称)整備に伴う調査。約900平方メートルの調査区域で東から西に流れる川跡を確認し、北側の岸辺近くで土器が集中して捨てられていた。

 川を埋めていた土、砂はおおまかに上層と下層に分けられ、上層から飛鳥時代から古墳時代後期にかけての須恵器や土師器(はじき)が出土。下層からは弥生時代中期の土器が見つかった。

 今回の調査現場のすぐ南ではこれまで、弥生時代中期から古墳時代後期の竪穴建物跡などが見つかっており、同課は「川の南側だけでなく、北側にも集落が広がっていたようだ。宇治が発展していくもととなった集落だった可能性がある」としている。

124とはずがたり:2017/02/21(火) 22:00:25
古代東洋史も此処で。

(朝鮮日報日本語版) 「韓民族はどこから来たのか」 韓国社会史研究の大家が導き出した答えは…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170217-00001635-chosun-kr&pos=2
朝鮮日報日本語版 2/19(日) 6:03配信

 「10代のころ、同じ民族同士で争う6・25戦争(朝鮮戦争)を経験したことで民族問題に初めて関心を持ち、大学に入ると、気になっていたことを解決するため努力した。今、60年を経て韓民族の歴史的展開過程を総整理することになり、感無量」

 韓国社会史研究の大家、ソウル大学社会学科のシン・ヨンハ名誉教授(80)が、『韓国民族の起源と形成研究』(ソウル大学出版文化院)を出版した。シン教授は、還暦を過ぎて集中的に掘り下げてきた韓民族のルーツに関する自らの研究を集大成し、韓国民族が5000年かけて歩んできた履行と進化と発展の過程を、社会学的観点から解釈した。

 韓民族の起源については、北から韓半島(朝鮮半島)に入ってきたという学説が支配的だ。どこからやって来たかについてはバイカル・カフカス・アルタイ・モンゴル・シベリア・中国北部などさまざまな見解があるが、ユーラシア大陸を出発したという点は共通している。しかしシン教授は「韓国民族の祖先が『空いた場所』だった韓半島に入ってきたという既存の学説は、歴史的事実と一致しない。韓民族の胎動の地は新義州以南の韓半島だった」と主張した。

 シン・ヨンハ教授は、地理的・気候的環境が歴史に及ぼす影響を重視するフランスのアナール学派の研究方法論を借用した。人類の発生地たる東アフリカから出発してユーラシア大陸に入った旧石器人は、およそ5万年前に最後の氷河期がやって来たとき、凍土にならない北緯40度以南の洞窟に入った少数だけが生き残った。東アジアで石灰岩の洞窟が最も多い韓半島に集結した人々は、およそ1万2000年前、気候が温暖になると洞窟から出て新石器時代を開いた。この人々は食料を求めて散らばり、韓半島に残った鳥のトーテムの韓族、遼西地方に進出したクマのトーテムの貊(ばく)族、遼東地方に定着したトラのトーテムのワイ(さんずいに歳)族と大きく三つに分かれた。

 およそ5000年前、遼西地域の降水量が急減したため、貊族は再び韓半島北部へ移動して韓族と婚姻同盟を結び、ワイ族も自治権を持つ侯国としてこの同盟に加わった。韓族の君長と貊族の女族長の間に生まれた檀君が都邑(とゆう)を阿斯達に定め、東アジア初の古代国家・古朝鮮を建国した。韓国民族の「原民族」は韓・貊・ワイの3部族が結合したものという説もまた、従来の学説とは異なる。シン教授は「前近代には中国人、近代には日本人が韓民族の起源について枠組みを定め、かなり歪曲(わいきょく)があったので、基準の枠組みを完全に変えてしまわなければならない」と語った。

 古朝鮮は2000年以上の長期にわたって続き、共同体としての結合が強固になった韓国の原民族は、古朝鮮が滅亡した後、馬韓・辰韓・弁韓・扶余・沃沮・高句麗・百済・新羅・加羅・耽羅など列国時代を開き、これが三国に整理されて統一のための主導権争いを繰り広げた。韓国の「前近代民族」の形成時期については、新羅の三国統一と考える見解と、高麗の後三国統一と考える見解に分かれている。シン教授は「新羅の統一で前近代民族の核心たる国民・領土・言語・文化の共同性が事実上完成し、高麗の統一と渤海遺民の吸収で最終完結した」とする「2段階形成論」を唱える。

 韓国の前近代民族は、再び1000年以上にわたって共同性を強化していき、19世紀に入って近代民族へと進化・発展した。その核心は、民族構成員を差別する身分制の打破と、近代民族意識の勃興だ。東学の平等思想などに鼓舞された農民層による「下からの運動」と、実学派を継承した開化派官僚による「上からの改革」が結び付き、1894年に身分制が廃止された。また、独立協会や独立新聞などの活動によって自主独立・自由民権・自彊(じきょう)改革思想が鼓吹され、近代市民的民族主義も高揚した。

 にもかかわらず、韓国の近代民族が近代国家建設に挫折した理由として、シン・ヨンハ教授は当時の無能な政治勢力を挙げた。高宗と守旧派の高官が、既得権を失わないために果敢な体制改革を回避し、大衆の政治的発言も封じ込めたので、近代民族と近代国家の間に乖離(かいり)が生じたという。シン教授は「高宗は専制君主権を強化しつつも、国防はロシアに依存し、王室の収入にばかり関心を持っていたため、日本の侵略であえなく倒れるほかなかった。最終的に、韓国の近代民族は日本の統治下で『民族解放的民族主義』を発展させ、1945年8月の光復を勝ち取ることに成功した」と語った。

126とはずがたり:2017/05/30(火) 22:10:46
農作業もしてたのか!

平安貴族のお仕事、実はかなりブラックな労働環境だった?
https://oshiete.goo.ne.jp/watch/entry/33e035a69df0d1421872a4180e1ebc03/
2017年05月24日 20:00

平安貴族のお仕事、実はかなりブラックな労働環境だった?「教えて!goo」に「今一番生きたい日本の時代はいつですか?」という質問が寄せられている。ぐうたらな筆者は「平安貴族になってのほほんと生活したい」と思ったのだが、よく考えたら平安貴族って本当に楽な生き方だったのだろうか? 平安文学を研究する宇木まさよしさんによると「けっこうブラックな環境で働く貴族もいたみたいです」とのこと。平安貴族の日常について、宇木さんに聞いた。

■平安貴族の勤務時間ってどれくらい?

まず、平安貴族たちの実際の勤務時間はどのくらいだったのだろうか?

「『延喜式 陰陽寮』によれば、1日3時間半から4時間半ほどだったようです。『延喜式』とは、平安貴族の服務規程をまとめたマニュアルのようなものです。勤務時間は長くても4時間半と書くと、とても気楽な生活を送っていたと思えますが、実際の勤務時間は相当に長かったといわれています。貴族の身分によって勤務時間はまちまちだったようですが、基本的に身分の高い貴族ほど勤務時間は短い傾向にあるようです」

なるほど、大貴族は優雅な生活を送れていたようだ。では、そのほかの貴族は?

「今回は実務を担当する中下級貴族を例にしましょう。中下級貴族は、天皇をはじめとする皇族の安全を守る仕事を任される場合もあり、頻繁に夜勤をつとめていました。右大臣(現代でいえば副総理・官房長官に相当する高官)であった藤原実資(957〜1046)が記した日記(『小右記』)には、中下級貴族の怠慢を処罰する記事がありますが、それによるとひと月に日勤15日、夜勤5日が勤務日数の最低ラインだったようです。また、重要な会議がしばしば夜間に開かれるために、警護を担当する中下級貴族の勤務時間も不規則でした。合計すると、実質勤務時間は7時間〜12時間ほどと考えられます」

ひと月最低20日勤務、夜勤もあって1日12時間労働もあり得るというのは、けっこうブラックかも……。人によっては過酷な労働環境だったわけだ。

「そして平安貴族は現代人と違い、公務以外で仕事が多くありました。特に重要なのが農業です。現代国家の法典に相当する『大宝律令 仮寧令』には、貴族の休暇について規定が記されていますが、田植えで忙しい5月・8月は長期休暇が貴族に与えられています。休暇といっても貴族たちは農作業をしなければなりません。平安朝にはトラクターや殺虫剤や肥料がないので、農作業は相当な重労働だったでしょう。朝廷に勤務していたほうがまだ楽かもしれません。そして肉体労働時間が短い大貴族も、規定勤務時間以外では皇族のお世話や、公務に関する具体的な指示などをしていました」

月に20日勤務してさらに兼業農家……平安貴族といえば、日がな一日中、蹴鞠をして遊んでいたのだと思っていたのだけれど、意外と忙しい日々を送っていたようだ。

■平安貴族はどんな仕事をしていたの?

では、平安貴族は実際にどんな仕事をしていたのだろう?

「平安貴族は官僚ですから、現代の官僚のように治安維持や経済政策などを仕事としていますが、貴族にとって最も重要な仕事は神社・お寺に関する宗教的なイベントです。これらのイベントには、今の私たちにもなじみぶかい端午の節句・七夕・8月の十五夜といったお祭りが含まれています。今でこそこういった行事は庶民的なイメージがありますが、平安朝においては農耕と深く関わるお祭りであり、国家が盛大にとりおこなうべき公式行事として重視されていました。これらの行事を順調に運営することを、平安貴族は仕事の目標にしていたのです。上級貴族の日記群を読むと、行事の運営について貴族たちが頻繁に会議していたことがうかがえます。平安貴族は基本的に官僚ですから、仕事の大枠は現在のお役人と通ずるところが多いです」

現代でも、官僚の仕事はかなりの激務。やはり今も昔も、国家行政は楽ではないようだ。

127とはずがたり:2017/05/30(火) 22:10:59
>>126-127
■平安貴族たちの仕事の愚痴

相当に過酷そうな平安の貴族ライフ。ということは、平安貴族の日記にも仕事がツライといった愚痴が書かれていたりするのだろうか?

「書いてあります。藤原行成(972〜1028)という人物を例にします。行成は、『枕草子』の作者である清少納言と友人関係(恋仲?)にあったとも推定されています。彼は有能な官僚としてあの藤原道長に信頼されていましたが、有能なだけに仕事をよく任されていました。仕事の負担があまりにも重いので、彼はついつい愚痴や泣き言を日記(『権記』)にもらしています」

ほうほう、どんなことが書かれているのだろう?

「寛弘8年(1011)8月11日の日記を見てみましょう。当日は、同年6月13日に崩御された一条天皇の四十九日の御法会でした。行成は早朝から参加し、事務方として務めましたが、深夜に至るとさすがに疲労が極限にまで達してしまったのか、『夜中まで働くと気がおかしくなる』(原文は『終日、営役の人、心神穏やかならず』)と泣き言をもらしています。行成は非常に多忙な日々を送っていたようで、『権記』によれば長保3年(1001)9月10日には、あまりに疲れているので仕方なく会議に遅刻したとも記されています。平安朝では、有能で勤勉な人であればあるほど仕事を多く任されていたようなので、藤原行成と同じような悩みを抱えていた人は他にも数多くいたと考えられます」

ううっ、平安貴族の中にも過酷な労働で心身に異常をきたす人がいたとは……今も昔も働くのは大変だったようだ。人類が労働から解放されるときは、いつか来るのだろうか?

参考資料
渡辺直彦・厚谷和雄校訂『権記』(史料纂集 続群書類従完成会、八木書店) 1978〜1996年
『延喜式』(国史大系26、吉川弘文館)2000年

論文・学術書
日向一雅「源氏物語と平安貴族の生活と文化についての研究--貴族の一日の生活について」『明治大学人文科学研究所紀要』54 2004年3月
大津透『道長と貴族社会』(日本の歴史06、講談社学術文庫) 2009年
細井浩志「平安貴族の遅刻について」『時間学研究』1 2011年

●専門家プロフィール:宇木 まさよし
平安文学研究家。東京大学文学部卒業後、研究機関に所属し、平安文学の研究を行う。中国文学の研究を並行して行い、日中の詩文についての比較をテーマとして活動中。

128とはずがたり:2017/06/04(日) 19:35:26
松本清張は、なぜ『火の路』で自身の古代史学説を“本気”で語ったのか?
https://thepage.jp/detail/20170524-00000006-wordleaf
2017.06.03 13:10

 政治や経済をはじめ様々な社会問題をテーマにした推理小説を数多く残した松本清張は、歴史や考古学についても興味や関心を示していました。それらもまた、小説のテーマにされることが多かったのですが、『火の路』に登場する古代史学説は、ほかの小説と明らかに違う扱いだったといいます。小説の中で、清張が“本気”で語ったという学説とその後日談について、ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。

【連載】松本清張作品から「いま」を読み解く
古代史の学説を“本気”で語った『火の路』

 前回扱った「東経139度線」は、ひょっとすると在り得たかも知れない古代史についての仮説を、作中の登場人物に語らせた小説であった。もっとも、その仮説は学説として検証に耐え得るようなものではなく、あくまで清張の想像空間における、遊びの要素も多分に混ざった珍説であった。長編の『火の路』(「朝日新聞」、1973年6月〜1974年10月)も、古代史についての学説が作中に語られた小説であったが、しかしここではその学説は本気で語られているのである。

 その本気さは、物語の中で語られている研究論文に見ることができる。それは、ヒロインである若き古代史研究者の高須通子による、飛鳥地方に存在する謎の石造遺物についての論文である。これは、飛鳥地方には謎の石造遺物として、「酒船石」や「亀石」や「猿石」、さらには「益田岩船」や「道祖神像」などの実に不思議な石造遺物があるが、いったい、それらにはどのような意味があるのか、についての論文である。

 高須通子の論文は、小説中に二つ掲載されている。そのうちの一つは、謎の石造遺物で土木工事好きの女帝・斉明天皇が作る予定だった「両槻宮」(ふたつきのみや)に供されるはずの施設物だった。しかし「両槻宮」の工事が中止になったため施設物も未完成なままに放棄された。また「両槻宮」自体、「日本の古代宗教とは違った宗教的色彩を帯びていた」と考えられ、それは「たいそう日本離れした(朝鮮からも)異質な宗教である」と述べる。

 この論文を偶然に読んだ、かつては古代史研究の俊英として知られ、今は学界から離れて保険外交員をしている梅津信六から、高須通子は便箋二十枚を超える書簡を受け取る。二人は面識がなかったが、高須通子の論文の内容は梅津信六が懐いていた古代史の学説に通じるところがあったのである。梅津信六によれば、高須論文で指摘している「異質な宗教」とはゾロアスター教(けん教、もしくは拝火教とも言う)ではないかと考えられる。

 なお、小説では詳しく語られていないが、ゾロアスター教とは、前六世紀のイランに起こった宗教のことで、仏教やキリスト教にも影響を与えたとされている。ちなみに、ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の「ツァラトゥストラ」は、ゾロアスターのことである。キリスト教を批判するニーチェは、キリスト以前に眼を向けたわけである。

129とはずがたり:2017/06/04(日) 19:35:37
>>128-129
登場人物の発表した古代史に関する2つの論文

 さて、この梅津の指摘にヒントを得た高須通子は、イランに行きゾロアスター教の遺跡等を自らの眼で見てきて第二論文を発表する。論文の題目は、「飛鳥文化のイラン的要素―とくに斉明紀を中心とする古代史考察と石造遺物について」というものであった。

 高須通子の第二論文の結論部分は次のような内容である。

 ――謎の石造遺物の一つである「益田岩船」の基壇上に並ぶ二つの方形穴は、イランのゾロアスター教の拝火檀を連想させる。また、『続日本紀』の天平八年八月条には「波斯人一人」が拝朝したとあり、この「波斯人」とはペルシャ人のことである。「結論から先にいえば、日本には仏教が六世紀後半に伝わったといわれているが、けん教はそれよりおくれても六世紀末までには日本に伝来していた」と考えられる。もっとも、それがけん教そのものだったかどうかは不明だが、その要素の濃い宗教だったと言える。――

 このように、高須通子は創見あふれる論文を発表したのだが、彼女がいた研究室の教授の学問傾向から逸脱した内容であったために、東京の大学に職を得ることができなくなり、またその学説も無視される。

 物語は、その後、梅津信六が古墳出土品の偽造に関わる仕事をしていたらしいことなどが明らかになり、やがて梅津と思われる中年男の白骨死体が発見されるというふうに急転回していく。学才がありながらも、梅津が学界から追放されることになったのは、女性関係のことがあったとされていて、『火の路』は古代史の大胆な仮説提示とともに、清張小説らしい、性愛をめぐる悲劇も語られている小説である。

『火の路』で発表した学説の訂正を後の評論で発表

 ここで注意したいのは、小説の中であっても、清張は古代史に関して自身が抱く学説を、登場人物を通して本気で語っていることである。後に『清張古代史記』(1982年11月)で『火の路』に言及して、「あれはどこまでも小説だが、そこに述べた仮説はわたしのものであ」ると述べている。また、『火の路』で指摘されている「両槻宮」についての説の訂正を、後に『ペリセポリスから飛鳥へ』(1975年5月)で行っている。普通ならば、小説中で語られている学説は訂正する必要がないはずだが、清張はそれを行っているのである。つまり、彼は小説であっても、本気で古代史に関する自身の学説を語っていたわけである。

 本来ならば、論文や学術書の中で展開されるべき学説を、松本清張はなぜ小説の中で語るのか。実は、そこには史実(ノンフィクション)と物語(フィクション)との厳密な線引きはできるのか、というような難しい問題があるが、清張は厳密な線引きはできないと考えていた。

 たとえば古代史では、資料のない「空白」の箇所が多いのだが、それを埋めるのは、歴史家の想像力による推理だと清張は考えていたのである。たしかにそうなると、史実と物語との間には、厳密な境目はないことになってくるだろう。

(ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)

130荷主研究者:2017/06/25(日) 11:07:10

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170611000069
2017年06月11日 17時10分 京都新聞
幻の恭仁京、見え始めた全体像 京都、開発で発見相次ぐ

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20170611150525tizu.jpg

発掘調査で見つかった直行する道路跡。恭仁京の区画の一角を示す遺構とみられる(木津川市木津・岡田国遺跡)

 奈良時代に足かけ5年だけ現在の京都府木津川市にあった都「恭仁京」への注目が再び高まっている。当初は山城国分寺跡として国史跡に指定されていた地で、1970年代から始まった発掘調査で恭仁京大極殿跡が確認されて「幻の都」が注目されたが、多くの謎が残されたままだった。しかし、ここ数年の周辺宅地や道路開発に伴う発掘調査で、道路跡などの発見が相次ぎ、全体像をつかむ手がかりが出てきた。確認できた都の遺構は限られているが、当時の雰囲気を感じることができる場所は多い。

 2011年1月、恭仁京跡の発掘調査を続ける京都府埋蔵文化財調査研究センターが、三角縁神獣鏡で知られる椿井大塚山古墳近くの上狛北遺跡(同市山城町)で恭仁京の一部とみられる南北に走る道路跡が確認されたと発表した。

 中心部の恭仁宮の外で初めて見つかった恭仁京の「痕跡」だった。

 今年1月には、岡田国神社近くの岡田国遺跡(木津川市木津)で、ほぼ東西南北に直交する道路跡が見つかった。都の碁盤の目が想定され、「恭仁京の跡とみて間違いないのでは」と上原真人・京都大名誉教授は太鼓判を押した。

 恭仁京は長らく「幻の都」と呼ばれ、宮域の発掘調査で遺構が次々と確認されてからも、全体像は分からないままだった。京域の痕跡がついに見つかり、研究は新たな局面を迎えた。

 恭仁京について記す「続日本紀」には具体的な場所を示す記述が少ない。都の範囲について京都大教授だった故・足利健亮氏(歴史地理学)は、地形や地名、道路から恭仁京と恭仁宮の範囲を想定し、地図にまとめた。「足利説」と呼ばれるこの地図は、現在も発掘調査の指針になっている。

 戦前は聖武天皇に関わる「聖蹟」として、保存されたままだった恭仁宮の発掘調査が始まったのは1973年から。伝承通りに大極殿跡が見つかり、平城京の大極殿を移築して建築したことなど文献上の出来事が次々と確認され、1988年からの発掘調査で恭仁宮の四至(範囲)が確定したが、あるはずの京域の痕跡がなかなか見つからなかった。

 姿を見せ始めた京域に、木津川市も今後の調査に期待を寄せる。岡田国遺跡の近くでは2008年の発掘調査でほぼ同時代の神雄寺跡も見つかり、木簡や楽器など珍しい出土物が注目された。国の中枢があった当時の状況を知る手がかりは増えている。

■恭仁京
 聖武天皇が740年に平城京から遷都し、744年に難波宮に遷都するまで現在の木津川市で造営した都。「続日本紀」には「賀世山(鹿背山)西道より東を左京、西を右京とする」とある。都の中枢だった恭仁宮跡(同市加茂町)では大極殿など主要な建物遺構が出土し、「宮域」の外に、碁盤の目状に区画されて住居や市などが並ぶ「京域」もあったと推測されているが、謎に包まれている。

131とはずがたり:2017/08/20(日) 19:25:39

道鏡ゆかり「東弓削遺跡」で現地説明会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170820-00000019-mbsnewsv-soci
8/20(日) 17:02配信 毎日放送

 奈良時代の僧・道鏡ゆかりの大阪府八尾市の「東弓削遺跡」で新たに建物跡や人工河川の跡などが見つかり、現地説明会が行われました。

 「東弓削遺跡」ではこれまでに地元出身の奈良時代の僧道鏡ゆかりの「由義寺」の塔の跡が確認されています。今回新たに、この「由義寺」跡から北東約500メートルの場所で建物の柱があったとみられる掘立柱穴や人工河川の跡が見つかりました。これは、道鏡を寵愛した女帝・称徳天皇が造営しまだ所在の分かっていない離宮「由義宮」の一部である可能性が高いということです。

 「昔こんなものがあったというのは面白いと思います」(見学者)

 付近からは当時の遺物なども出土していて市立歴史民俗資料館は21日から27日まで展示会を開くということです。

毎日放送

132とはずがたり:2017/09/14(木) 20:09:55
高句麗に続き百済も「中国史」、中国の主張に韓国騒然―米華字メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170914/Recordchina_20170914039.html
レコードチャイナ 2017年9月14日 13時45分 (2017年9月14日 20時03分 更新)

13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。資料写真。(Record China)
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2017年9月13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。

13日付の韓国紙・東亜日報によると、中国政府が資金支援し改訂した中国の新しい歴史書で、高句麗や渤海国(唐末)はもとより、百済まで中国史の一部として編入されたことが確認された。

韓国陸軍士官学校軍事史学科のイ・サンフン教授が12日、「百済歴史編年」「高句麗歴史編年」など「東北古代民族歴史編年双書」5巻シリーズを分析した結果として明らかにした。

高句麗や扶余の歴史を中国史の年号に従って記述したこの双書の中の「百済の歴史の初期から中国史」という主張は、中国学界で初めて出されたものだ。

双書の編者で中国長春師範大学の姜維公(ジアン・ウェイゴン)教授は、「百済歴史編年」内の小論文「百済起源問題探討」で、「中国学界はこれまで、百済を韓国史の範囲内としていたが、百済の前期の歴史は事実上、中国史に含まれる」とし、「百済は4世紀半ばに朝鮮半島の漢江流域に移動したが、百済が中国史に含まれるという事実を変えることはできない。紀元前2世紀から4世紀半ばまで漢江流域は中原王朝の所有だった」と主張している。(翻訳・編集/柳川)
>>次の記事:韓国軍が北朝鮮の核心施設を打撃

133とはずがたり:2017/11/07(火) 07:59:42
稲敷市は嘗ての稲敷郡だったが元々(江戸期)は信太郡と河内郡だったそうな。

明治の郡制時に古代の郷名より両郡の統合地名に復活昇格したようだ

http://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/08ibaraki/24-inasiki/da9-6.pdf

134とはずがたり:2017/11/07(火) 08:11:19
常陸・北上・日高が一つの線で繋がるとわ!

日高見国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%AB%98%E8%A6%8B%E5%9B%BD

日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。

解説[編集]
『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている[1][2][3]。
例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある[4]。神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている[5]。また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ[6]、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる[7]。
その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている[8]。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている[9]。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。

135とはずがたり:2017/12/08(金) 16:45:16
大学受験日本史選択者必修の螺鈿紫檀五弦琵琶だ♪
楊貴妃が送ったもんだとは知らんかったぞ。。(;´Д`)

嬉しいやら恥ずかしいやら・・・1300年前に楊貴妃が天皇に贈ったプレゼントが、今も大切に保管されている!=中国メディア サーチナ 2017年12月8日 09時12分 (2017年12月8日 16時25分 更新)
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171208/Searchina_20171208016.html

中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。(イメージ写真提供:123RF)(サーチナ)


 中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。

 記事は、奈良・東大寺の正倉院にある宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶」について紹介。「天皇が1300年に渡り密やかに所蔵してきた宝物。唐の玄宗皇帝と楊貴妃が聖武天皇に贈ったプレゼントが、現在に至るまで完全な形で保存されているのである」と説明した。

 そのうえで、8世紀中期に建てられた正倉院には聖武天皇が生前愛した貴重品が保管されており、その多くは日本の遣唐使や留学生が持ち帰った書画、仏経典、楽器、生活器具、薫香、服飾品、織物、刺繍などであるとした。また、価値の高い唐代の芸術品を最も完全な形でかつ豊富に残しているということで「専門家が、唐の建築や文化財を見たいのであれば奈良に行くべき。唐の気風を見ることができるのは世界で日本だけだと言うのもうなずける」と伝えている。

 また、正倉院自体が幾多の戦乱をくぐりに抜けて現存していることについて「世界の建築史において、これほど古い木造建築が残っているというのは奇跡なのだ」と評した。そして「日本にある正倉院の宝物からは、中華文化絶頂期の面影を見ることができる。これらはすでに全人類共通の文化遺産になっているのである」としている。

 中国のネットユーザーからは「奇跡だ。日本の天皇が愛したものは代々伝わり、中国の皇帝が愛したものは地下に埋葬されてしまう」、「行ってみれば分かるけど、日本では本当にわれわれの唐や宋の文化を見ることができる」、「本当に恥ずかしい。日本は唐の優れた物を残して伝えたのに、中国ではどれだけの民間工芸が途絶えてしまったことか」、「唐代の物を見るのに日本に行かなきゃいけないって、恥ずかしいだろ」といったコメントが寄せられた。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)

136とはずがたり:2018/06/18(月) 13:39:02

芳野監
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E9%87%8E%E7%9B%A3

芳野監(よしののげん)は、8世紀の日本で吉野地方に設けられた特別な地方行政区分、機関である。畿内に含まれる。領域は現在の奈良県南部にあたる。


芳野監の位置(716年頃)
沿革
大和国の吉野郡を分立させて設けられた。『律書残篇』によると、芳野監は“郡二、郷三、里九”とある。『律書残篇』の大倭国(大和国)の郡数は14(当時の大和国の郡数は吉野郡を入れて15)となっているため、吉野郡が2つの郡に分けられたと思われる。設置時期は不明だが、和泉監が設置された霊亀2年(716年)に近い時期と思われる。

続日本紀の天平五年(733年)1月27日条に「芳野監」が初見する。国でなく、監という機関になったのは、この地にあった吉野宮の管理にあたる役割があったためと推測されている。前述の通り芳野監の設置は吉野宮を管理するためという理由であるが、古来より吉野は万葉集に「見れど飽かぬ吉野」、「雲居にそ遠くありける」などと詠まれており、大和国とは別の遠国と意識されていた。

天平10年(738年)から嘉祥元年(848年)までの間に廃止されたが、廃止時期も和泉監が廃止された天平12年(740年)頃であろう。


和泉国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%9B%BD

『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮(ちぬのみや)、茅渟宮(ちぬのみや)、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる[1]。国と異なる特別な機関だが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである[2]。

その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。

137とはずがたり:2018/07/10(火) 11:31:01
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/1367

まじかー,讃良は当然さららと訓(よ)むもんだと疑わなかったが近世以降は<ささら>と訓んでたらしい。さらら→ささら→さんらと変化したのか。
因みにさっきメールしたのはさらさ嬢♪仕事メールだけどな。

更に因みに相楽(郡名)も当然の様に現代では<そうらく>と訓むが,地名では<さがなか>と訓む。

讃良郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83%E8%89%AF%E9%83%A1

古代
和名類聚抄には「佐良良」という訓が記載されており、古くは「さらら」と読んだ。持統天皇の名「?野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。「さらら郡」には更占郡などの表記もある。のちに「さら郡」という読みが現れ、近世以降はもっぱら「ささら郡」と読まれる。

木津川市相楽
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92619-0222+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%B8%82%E7%9B%B8%E6%A5%BD/data=!4m2!3m1!1s0x60013c678d0ee25b:0xdf6b7f7a0d0ac4bc?sa=X&ved=0ahUKEwjzh_mrvpPcAhUCULwKHWBnB74Q8gEIJzAA

138とはずがたり:2018/09/02(日) 23:48:04
日下についての議論は読み応え有った。

スズメ♂古代史「覚え書き」

2011年9月26日月曜日
メインサイトの引越しについて
http://szmkodai.blogspot.com/2011/09/blog-post_26.html

2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
http://szmkodai.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

139とはずがたり:2018/09/25(火) 10:14:24

足利先生が出てくるが私が選択したのは青木先生の人文地理だった。神戸の震災を予言するなど俺の中でカリスマの青木先生だけど足利先生の授業も受けたかったな。

スズメ♂古代史「覚え書き」
2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
http://szmkodai.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

140とはずがたり:2018/09/28(金) 19:34:22
光明皇后ゆかりの経典だった…来場の研究者指摘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180928-OYT1T50100.html?from=y10
2018年09月28日 17時41分

 聖武天皇の妻・光明皇后(701〜760年)が、両親の冥福めいふくを願って写経生に書き写させた経典「一切経」の1巻が、高野山真言宗の古刹こさつ・法道寺(堺市)で見つかった。堺市博物館などが確認した。4年前に展示していたが、調査し直したところ、皇后ゆかりの写経とわかった。

 「雑阿含ぞうあごん経巻第三十六」(縦約27センチ、横約10メートル51)。巻末が切り取られ、そこに書かれていたとみられる願い事や願い主、写経の日がわからず、市博物館は2014年に展示した際に「平安〜鎌倉時代の経典」と説明していた。

 展示を見た研究者から、「光明皇后の経典では」と指摘を受け、市博物館などが調査。文字がやや平らで整った書体、「言偏」の第2画が長いなどの特徴が、奈良国立博物館(奈良博)に寄託されている重要文化財「雑阿含経巻第三十九」などと類似していることから、これらと同様に、743年(天平15年)5月11日の日付をもつ「五月十一日経」の1巻と判断した。

(ここまで426文字 / 残り217文字)
2018年09月28日 17時41分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

141とはずがたり:2018/10/16(火) 08:18:44

宮内庁
仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/220000c
毎日新聞2018年10月15日 14時02分(最終更新 10月15日 18時47分)

 宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。

 大山古墳は全長約500メートルで、三重の濠(ほり)が巡る。宮内庁は仁徳天皇の墓として管理するが、学術的には未確定。調査は10月下旬〜12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。

 宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。考古学界は陵墓の公開と保全を訴えており、宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。今回、一般向けの現地説明会はないが、速報展や講演会の開催を検討しているという。

 宮内庁の陵墓管理委員会で委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は「古墳全体を保存活用する上で地元や研究者の協力は欠かせず、今回の共同発掘は重要な一歩だ。陵墓の公開に向けても歓迎できる」と評価した。堺市は大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している。【矢追健介】

142とはずがたり:2018/10/16(火) 22:52:47
嵯峨天皇や後鳥羽上皇辺りと並んで宇多天皇大好きなんだけど猫派だったのかー。。

【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】
https://matome.naver.jp/odai/2139027691598380601

143名無しさん:2018/10/17(水) 00:33:18
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/286932

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邪馬台国はどこ?吉野ケ里で考古学フォーラム
10/10 9:26

畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
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 邪馬台国について考えるフォーラムが7日、吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園で開かれた。近年の考古学研究成果を基に有力候補地について意見を交わした。

 福岡県久留米市文化財保護課長補佐の白木守さん、奈良県桜井市教委文化財課長の橋本輝彦さん、佐賀女子短大名誉教授の高島忠平さんが講演した。九州説では墳墓や山城、集落などを、近畿説では弥生土器の編年と古墳の規模・形状などを根拠とすることを説明。決め手となる文字史料が見つかっていない点も言及した。

 中国の歴史書、魏志倭人伝に記された邪馬台国の集落について「環濠(かんごう)集落を思わせるが(卑弥呼の時代に)九州では増えるが、近畿では無くなる」と高島さん。白木さんが「卑弥呼の居住地であれば環濠はあってしかるべき」とする一方で、橋本さんは「同一様式の土器が大量に使われ、一つの水系に位置する点で奈良盆地が有力地」と答えた。

 フォーラムは同公園管理センターと県立博物館が、開催中の特別企画展「よみがえる邪馬台国 倭人伝の道6」(11月11日まで)に合わせて開き、約130人が聴講した。

144名無しさん:2019/02/15(金) 21:25:41
ふむ

145とはずがたり:2019/03/28(木) 09:45:07

確かに熊野詣では盛んだったが伊勢には娘派遣しながらも本人は行かなかったのか。確かに聞いたことないな。

なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1042186169.html
2015年10月09日

146とはずがたり:2019/03/28(木) 09:47:18

二所宗廟なんて言い方があるなんてしらんかった。

道鏡の宇佐神宮神託事件も重い神託だったんだな。

大和朝廷の九州・大和複合体制を示唆するのではないか。邪馬台国は両方にあった,でええやろ。

二所宗廟とは?
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1045455576.html
2015年11月21日

伊勢神宮と石清水八幡宮、古代は宇佐神宮とも、謎多き伊勢と八幡神の二地
二所宗廟
二所宗廟(にしょそうびょう)とは、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟のことで、伊勢の神宮(伊勢神宮)と石清水八幡宮の二つの神社を指す。ただし、石清水八幡宮は、遠国の宇佐八幡(現 宇佐神宮)に代わって指定されたふしもあり、石清水八幡宮=宇佐神宮であり、二所でありながら、三つの神社と考えた方がよい。

147とはずがたり:2020/05/06(水) 20:39:12
!?

坂上田村麻呂黒人説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82%E9%BB%92%E4%BA%BA%E8%AA%AC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

148荷主研究者:2020/06/20(土) 23:09:20

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20200327/CK2020032702000026.html
2020年3月27日 中日新聞
「遠江国分寺史跡」 磐田市が再整備計画
◆木装基壇復元が目玉

国の特別史跡「遠江国分寺史跡」=磐田市で

 磐田市は、同市見付・中泉にある国特別史跡「遠江国分寺史跡」の再整備計画の全容をほぼ決めた。最も特徴ある木装基壇と呼ばれる伽藍(がらん)の土台を復元する計画があり、専門家からの注目を集めそうだ。約三ヘクタールの敷地に低木を植栽し、市民の憩いの場にもする。二〇二〇年度から工事を順次進め、二五年度末の完成を目指す。

 遠江国分寺は聖武天皇が七四一(天平十三)年、国家鎮護のため建立を命じ、全国約六十余カ国に造営されたうちの一つで、国特別史跡の国分寺は国内に三カ所だけ。

 木装基壇は、土をたたき締めて積み上げた建物の基礎。二〇〇六〜一四年の発掘調査で、敷地内の金堂や七重塔、講堂、回廊、僧坊といった各施設に用いられていたことが国内で初めて確認された。

 計画によると、木装基壇には耐用年数が長い特殊加工を施した木材を使用。施設ごとに地面からの高さが二十〜七十センチほどの基壇に仕上げる。各施設を順番に歩いて巡れる歩道を設け、透水性や耐水性の高い舗装を施す。現在は市役所駐車場として使われている約二千平方メートルの隣接地も計画に加え、公園化する。

 敷地内にある国有地を無償譲渡してもらう手続きを進めており、本格的な工事は二一年度に開始する。約八億円を投じて、一年ごとに約一ヘクタールずつ整備し、あずまや三棟やトイレも設置する。

 遠江国分寺は文献や資料がないため、大学の名誉教授の推察や、同時代の寺院を計画立案の参考にした。

(宮沢輝明)

149荷主研究者:2020/10/11(日) 10:58:24

https://www.sakigake.jp/news/article/20200828AK0020/
2020年8月28日 秋田魁新報
大溝跡、さらに160メートル 払田柵跡、朝廷の威光示す?

 秋田県大仙市と美郷町にまたがる国指定史跡「払田柵跡」で、政庁があった長森丘陵の外周のほぼ全体に大きな溝(大溝)跡があることが確認された。県教育庁払田柵跡調査事務所(大仙市)が1990年代から断続的に行ってきた発掘調査で判明した。大溝の役割について事務所は「朝廷の威光を蝦夷らに示そうとした可能性も考えられる」としている。

 払田柵は、9世紀初頭から10世紀後半に東北日本海側に置かれた出羽国の地方官庁。政庁がある長森丘陵は築地塀(ついじべい)や材木塀(外郭)で囲まれ、西側の真山丘陵と併せた周囲にも材木塀(外柵)が巡らされていた。

 事務所は、1990年代の調査で長森北側の外郭外側に幅3〜4メートル、深さ約1メートル、長さ約500メートルの溝跡を確認。さらに2011〜19年度に、城柵正面の南門周辺にも長さ計約230メートルにわたって溝跡が存在することが分かった。長森北側の溝跡の東端と南門周辺の溝跡の東端は、いずれも外郭に沿って流れる川に接続していたとみられる。

 溝の底には十和田噴火(915年)の火山灰がたまっており、それ以前に掘削されたと考えられるという。

 今年6月から行っている本年度の発掘調査では、2019年度に確認した溝跡から、外郭と平行してさらに西に約160メートル延びていることが分かった。端は真山丘陵との間を流れる川に接続。これにより、一部で川を利用しつつ、外郭全体が大溝で囲まれていたことが分かった。

 事務所は、大溝の役割を解釈する上で当時の時代背景が重要だとみる。出羽国では878年、秋田城駐在国司の強引な政治に反発したとされる蝦夷が秋田城を焼き打ちした「元慶(がんぎょう)の乱」が勃発。この16年後に朝廷が蝦夷の攻撃に備え国司に城の警護を命じた文書が残るなど、緊迫した情勢が続いたという。

 一方で、大溝は敵の襲来を防御できるほど大規模ではないことや、造成後に手入れされた形跡がないことが分かっている。こうした状況を受け、谷地薫文化財主査は「大溝が造られた当時、外柵は既に朽ちていた。大溝によって蝦夷や農民らに朝廷の権力を知らしめようとしたのではないか。造成自体も威力を見せつける大事業となったという見方もできる」と語る。

 事務所によると、これまで出羽国では城柵全体を囲んだ溝跡は確認されていない。今後、発掘調査の結果を基に、資料や他県の城柵に残る溝跡などを調べ、大溝造成の目的を研究する。谷地文化財主査は「大溝の役割が明らかになれば、出羽国の対蝦夷政策の理解につながる可能性もある」と期待している。

150荷主研究者:2021/02/04(木) 22:45:27
「皇朝十二銭」…懐かしい!

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=715673&comment_sub_id=0&category_id=112
2021/1/7 16:01 中国新聞
平安テクノ都市、全容の解明着々 山口の周防鋳銭司跡、相次ぐ新発見

新たな発見が期待される周防鋳銭司跡=昨年12月(撮影・山下悟史)

「長年大宝」の鋳損じ銭

銅を溶かす際に使った「るつぼ」

炉に風を送った「鞴羽口」

紙の文書を巻き付けた「題箋軸」

 平安時代の貨幣鋳造所で、山口市南部の鋳銭司地域にある国史跡「周防鋳銭司跡(すおうのじゅぜんじあと)」。朝廷が発行した「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」のうち8種類を製造した記録が残るが、実態は謎が多い。市は史跡を「古代テクノポリス」と位置付け、1965年から6度にわたって発掘調査をしてきた。これまでに2種類の貨幣や大型建物跡を確認。全容の解明が期待される。

 周防鋳銭司は825年に設置され、約200年間稼働した。最盛期は年1100万枚の製造目標を掲げ、80人以上が働いた。当時、国内の銭貨のほとんどを周防鋳銭司が造っており、造幣の歴史を知る上で貴重な遺跡として1973年、約3万8千平方メートルが国史跡に指定された。

 2017年からは山口大と共に調査している。18年に「長年大宝(ちょうねんたいほう)」、昨年は「承和昌宝(じょうわしょうほう)」を特定した。いずれも製造過程で失敗した「鋳損(いそん)じ銭」で、本来は溶かして再利用されるが、何らかの理由で取り残された。等間隔に並ぶ直径1メートルの柱穴も発見し、倉庫や管理棟などの大型建物だった可能性があるという。

 ほかにも銅を溶かす際に使った器「るつぼ」や炉に風を送る「鞴羽口(ふいごはぐち)」が見つかり、鋳造所の存在を裏付けた。紙の文書を巻き付けた木製の「題箋軸(だいせんじく)」も出土し、文字の読み書きができる役人の存在をうかがわせる。

 これまでの調査は史跡面積の約1割にとどまる。市は今後も山口大と連携する意向で、将来は出土品を紹介する施設や歴史公園の整備も視野に入れる。渡辺純忠市長は「調査にはまだまだ長い時間を要する。これからも発掘を進め、多くの人が訪れる観光資源にしたい」と意気込む。(中川晃平)

151とはずがたり:2021/02/12(金) 22:22:18

https://twitter.com/mitsusato_/status/1359918242005884931
山田実理 ??? ????
@mitsusato_
「日本」という呼び方は中国が東方の小国を呼ぶ一般名詞的な呼び方で、百済をそう呼んでる記録もある。それを倭国が国号として採用し、周の武則天に許可を貰った。ここいらは既に研究者も指摘している話。古い漢籍にも日本以外の「日本」が出てくる。倭国が最も東にあったから名乗ったのだろう。

152名無しさん:2021/02/28(日) 06:29:32
古代世界史

https://news.yahoo.co.jp/articles/c99415cfcda4384864e19a45ff4dbc137262e72f
北米最古の犬の骨がアラスカで見つかる、人類拡散の旅路を示唆
2/27(土) 18:05配信
ナショナル ジオグラフィック日本版

文=Robin George Andrews/訳=三枝小夜子

最終更新:2/27(土) 18:05
ナショナル ジオグラフィック日本版

153名無しさん:2021/03/15(月) 14:26:31
古代世界史

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0993038d8d5e7adf9492c3c1c569615c61b7f3d
集団処刑か? 多くは血縁関係になく、犯人や動機は謎のまま、クロアチア
 約6200年前、現在のクロアチア東部にあたる場所で41人以上の男女と子どが虐殺され、大きな墓穴に投げ込まれた。2007年にこの墓を発見した考古学者たちは当初、血縁関係にあるコミュニティの全員が処刑されたのだろうと考えた。

 しかし、3月10日付けで学術誌「PLOS ONE」で発表された新たな分析結果によれば、ほとんどの犠牲者たちには血縁関係がなかったことが明らかになった。この分析では、古代の大量虐殺の調査としてはかつてない規模の遺伝子研究が行われた。

 この意外な発見からは、さらなる疑問が浮かび上がる。最も重要なのは、なぜ犠牲者たちが殺されたのか、そして、誰が殺したのか、という点だ。

「それは最大の難問です」と論文の筆頭著者マリオ・ノバク氏は話す。氏はクロアチアのザグレブにある人類学研究所の考古学者だ。「正直なところ、私たちにはよくわかりません」と言うノバク氏は、何か明確な考古学上の証拠が近くで発見されない限り、「これからも解明できないでしょう」とつけ加えた。

車庫の下に墓が
 この古代の集団墓地はクロアチアのポトチャニ村にあり、車庫の建設中に偶然、発見された。直径約2メートル、深さ約1メートルの墓穴には、少なくとも41人分の骨の残骸があった。まだ関節でつながっている骨もあれば、ばらばらになっている骨もあった。

 当時、たまたまその地域にいたザグレブ大学の考古学チームの学者たちが現場に呼ばれた。考古学者たちは、これらの遺骨は現代の戦争の犠牲者で、おそらく第二次世界大戦か1990年代のユーゴスラビア紛争の犠牲者だろうと考えた。だが、最初の調査で銃弾も軍服も見つからず、歯には現代の歯科治療による詰め物もないことがわかった。

 さらに発掘調査を行うと、古代の陶器の破片が見つかったうえ、3つの人骨の放射性炭素年代測定により、この墓が6200年前のものであることが明らかになった。年代と場所、発見された陶器の種類から、犠牲者たちはラシニヤ文化の人々であると結論づけられた。

 ノバク氏によれば、ラシニヤ文化の人々についてはほとんどわかっておらず、この文化に関連する墓地遺跡は、クロアチアではここ以外にもう1つしか発掘されていない。「この地方でもっとも研究が遅れている先史時代文化のひとつです」と氏は言う。その別の墓地遺跡の調査結果から、ラシニヤ文化の人々は牧畜の民であり、牛を連れて季節ごとに放牧地を移動していたほか、銅を採掘して道具を作っていたと推測されている。

 生物考古学調査によって、男性21人、女性20人の人骨が特定された。50歳位の成人や、若者、わずか2歳とみられる子どもたちも含まれていた。死因が自然死ではないことはすぐに明らかになった。

 成人男性3人、成人女性4人、子ども6人は、頭蓋骨の側頭部や後頭部に、鈍器による骨折、刺し傷、貫通した傷、切り傷などの損傷があった。こうした致命傷には、石斧やこん棒、金属製の道具が使用されたとみられている。凶器は発掘現場からは見つかってないが、犠牲者の傷は、一度の事件で加えられたとみられている。

 とりわけ痛ましいのは、一部の頭蓋骨に複数の傷があることだ。「命を奪うには一撃で十分なはずです」とノバク氏は指摘する。「でも、頭蓋骨に4つも傷を負っている人が2、3人いました。過剰で狂気的だと言ってもいいでしょう」

154名無しさん:2021/03/15(月) 14:26:51
>>153

暴力の歴史
 不明な点が多いものの、この虐殺が戦闘によるものではないことは明らかだ。戦闘であれば、集団墓地に埋葬されるのは若者や成人の男性がほとんどで、女性や子どもは埋葬されないからだ。また、犠牲者の顔面や前腕には傷がなかった。攻撃を避けようとする人は、本能的に腕を上げて身を守ろうとするので、前腕に傷が残るものだ。したがって、犠牲者たちはしゃがんだ姿勢かひざまずいた姿勢で手を縛られ、身動きがとれない状態だった可能性が高い。

「彼らは身を守るすべがなかったのです」とノバク氏は言う。「これは、あらかじめ計画された集団処刑と考えられます」

 ヨーロッパ先史時代の大量虐殺が明らかになったのは、このポトチャニが初めてではない。例えば、ドイツのハルバーシュタットにある約7000年前の集団墓地には、後頭部を殴打されて殺された犠牲者が多数埋葬されている。

「頭蓋骨の傷は、傷の位置や犠牲者の年齢の幅などの点で、私が調査した他の悲惨な大量虐殺とよく似ています」と、英ケンブリッジ大学の骨学者・古病理学者のトリッシュ・ビアーズ氏は話している。氏は今回の研究には参加していない。

 ポトチャニで発見された犠牲者についてさらに情報を得るために、調査チームは発掘現場から入手した38人分のDNAを分析した。その結果、全員が同じ遺伝的祖先を持つことがわかった。調査した犠牲者の祖先は、ごく一部は西ヨーロッパの狩猟採集民社会から来ていたものの、大半は現在のトルコの大部分を占めるアナトリア出身だった。彼らは8500年ほど前に初めてヨーロッパに農耕を持ちこみ、数千年後、子孫の一部が牛を連れてバルカン半島を移動するようになった。

 DNA分析で1人の男性とその娘2人、甥1人が特定されるなど、犠牲者のうち数人は近い血縁関係にあることが確認された。しかし、7割の人々にはそうした関係がないことも判明した。こうした結果から、彼らは、多くの家族で構成される大規模なコミュニティに属していたとも考えられる。

幻の加害者
 ビアーズ氏が行った南北アメリカにおける考古学調査では、遺伝子レベルでは必ずしも血縁でない人々が、漁師、農耕民、職人など職業ごとに社会的集団を形成したことが明らかになっている。

 だが社会的集団の関係性は「遺伝学では把握できません」と、ケンブリッジ大学で古代DNAを専門とする考古学者のクリスティアーナ・シャイブ氏は言う。氏も今回の調査には参加していない。虐殺によらない埋葬墓がほかにあれば、この地域の通常の集団について遺伝的な観点から知ることができるだろう。残念ながら、これまでのところ、ポトチャニの遺跡はこの集団墓地だけであり、近隣に集落の跡も発見されていない。

 加害者については、まったく不明だ。「この残虐な行為を実行した人々については、何の痕跡もありません」とノバク氏は言う。加害者たちは、どこか遠方または近隣の敵対するグループに属していたのかもしれないし、犠牲者たちと同じコミュニティにいたのかもしれない。

 殺害の動機についても手がかりがない。ヨーロッパ先史時代における他の大量虐殺の遺跡や事例では、干ばつによって資源不足に陥った後に暴力行為が発生したとみられるものがあり、排他主義や気候変動といった対立を生む要素が原因になったことがわかる。「しかし、当時のポトチャニで気候変動が起きていたことを示す証拠はありません」とノバク氏は話す。

 だが、ひとつだけ明白なことがある。それは、こうした邪悪な人類の行為が何千年も続いてきたということだ。大量虐殺は、1万3000年以上にわたって世界各地で行われてきた。司法制度が導入され、社会全体の秩序が整い、暴力的な風潮は衰退したものの、斧に代わって銃が使用されるようになり、部族間の争いに代わって国家主導の集団殺害が行われるようになるなど、大規模な虐殺はますます容易に実行できるようになっている。

 ポトチャニで見つかったような集団墓地が私たちに何かを教えてくれるとしたら、それは、「この1万年の間、人間は変わっていないということです」とノバク氏は言う。「変わったとしても、それは悪い方への変化なのです」

文=ROBIN GEORGE ANDREWS/訳=稲永浩子

155とはずがたり:2021/07/19(月) 09:30:56

縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果
https://www.sankei.com/article/20210718-M6ILDY3F35LSVNRV5QOVOK4T2U/
2021/7/18 08:00
寺田 理恵

かつて近世の古民家のような茅葺きに復元された縄文時代の住居が、土をかぶせた屋根に変わってきた。発掘調査に基づいており、新たに復元整備される遺跡では土屋根が主流になるとみられる。31日まで開催中のユネスコ世界遺産委員会では、土屋根が複数箇所で見られる「北海道・北東北の縄文遺跡群」が登録される見通し。縄文集落の景観イメージは大きく変わりそうだ。

まるで土饅頭
裏側から見ると、まるで土饅頭だ。「北海道・北東北」を構成する17遺跡の一つ「入江貝塚」(北海道洞爺湖町)の復元住居は土で覆われ、従来の茅葺きとイメージを大きく違える。「風が入らず、保温性が高い」(同町教育委員会)という。

茅葺きのイメージがあるのは、現在見られる復元住居の多くが茅葺きのためだ。縄文や弥生時代の家は、地面を掘りくぼめて複数の柱を立て、その上に屋根を掛けた半地下式の竪穴住居。床のくぼみや柱穴は全国で見つかっているが、失われた屋根は遺物などから推測して復元される。

茅葺きは戦後間もなく、弥生時代の集落・水田跡「登呂遺跡」(静岡市)などで竪穴住居が復元された際に採用されたが、当時は屋根の素材が分かっていなかった。

登呂遺跡では水田と集落が一体となって確認され、考古学ブームが発生。教科書にも載せられ、水田稲作のイメージとともに茅葺きも定着した。埋蔵文化財は地表に建物がなければ集客が難しい。各地の遺跡で茅葺きを参考に復元整備が行われた。

住居跡の焼土が物証に
土屋根の可能性が高まったのは、ここ30年余りの発掘や研究の成果だ。「北海道・北東北」の一つ「御所野遺跡」(岩手県一戸町)で平成8年に行われた焼失住居跡の調査では、焼け残った柱や屋根材と焼土の堆積状況から全国で初めて縄文時代の土屋根住居を確認。樹皮の下地に土をかぶせた土屋根が復元された。


御所野縄文博物館の高田和徳館長は茅葺きのイメージが根強い要因を「全国の焼失住居跡の調査で茅は出土量が少ないことが分かっているが、茅葺きで復元したものを変えるには費用がかかるため各地でそのまま残っている」と指摘する。

大型掘立柱建物で有名な縄文の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(青森市)の復元住居は茅・樹皮・土の3種類で葺かれている。同遺跡センターによると、平成7年から復元が進められ、土屋根は14、15年度に計5棟が整備されたという。

「今後も増える」
土屋根は「北海道・北東北」以外の縄文遺跡でも「北代遺跡」(富山市)「宮畑遺跡」(福島市)「勝坂遺跡」(相模原市)など各地に広がっている。

「梅之木遺跡」(山梨県北杜市)では、平成30年から年1軒ペースで復元が進む。同市教委の佐野隆参事は「茅葺きか土屋根かではなく、年間を通して土屋根の住居を使っていたかが議論になっている。土屋根は夏に蒸し暑くなるので、実験のため5月頃に屋根から土を下ろして樹皮だけにしている」と話す。


遺跡整備コンサルタント会社「ウッドサークル」(東京都中央区)の中田英史社長は「考古学的調査結果から、この10年ぐらいは土屋根が増えており、今後も増える可能性がある」とみる。


文字による記録のない縄文時代の住まいや暮らしぶりが、発掘調査などで明らかになってきた。「北海道・北東北」の世界遺産登録をきっかけに遺跡整備の機運が高まれば、縄文の集落景観が塗り替わりそうだ。

156とはずがたり:2022/04/17(日) 23:42:43
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/773882
法成寺跡で巨大礎石発見「逸話通り」 藤原道長が創建、平等院のモデル
2022年4月17日 6:00
日山正紀
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平等院のモデルになった藤原道長による巨大寺院・法成寺(ほうじょうじ)跡(京都市上京区)の工事現場で、礎石など石材3点が見つかっていたことが…

157とはずがたり:2022/10/11(火) 16:07:29
すげえな,これは保存しておかなあかんやろ。。

「まさかの発見に頭の中まっ白」弥生から明治まで2千年分、生活の痕跡残る遺構
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220903-OYT1T50239/
2022/09/04 13:22

 平安初期の史書「日本後紀」に水運拠点として登場する川港「 淀津よどつ 」の遺構が、桂川西岸(京都市伏見区)から見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所を驚かせたのは、生活した痕跡が残る遺構面が時代別に10面確認されたことだ。水害を示す粗い砂の層はなく、弥生期から明治期まで2000年の間、人の営みが途切れなかったことがわかった。発掘時の様子や発見の意義を聞いた。(山口景子)

■「状態良好 奇跡的」

 調査は、昨年11月〜今年3月、長岡京跡・ 淀水垂大下津よどみずたれおおしもづ 町遺跡(約1万5000平方メートル)の約1600平方メートルで実施された。

 昨年末、地表から1メートルほど下で江戸期の面を確認。ツルハシで一部を深く掘り下げた断面から、目視で見分けがつく濃淡の土層が見つかった。

 「まさかの発見に、頭の中がまっ白になった。すぐに弥生期の土器片が出始め、想定のはるか上をいった」

 調査研究技師の松永修平さん(31)は振り返る。

 掘り進むと遺構面は計10面(厚さ約3メートル)になった。弥生期の約2メートル下には、縄文期に 堆積たいせき した土層も存在した。

 2月頃から順次、現地入りした研究者らも「ただ事ではない」と驚いた。3月に訪れた西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は「これほど長期にわたって続いた遺跡が、良好な状態で出土するのは奇跡的」と述べた。

■30メートル以上の堀も
 国内外の土器・陶磁器片などの出土品は、整理用のコンテナ(縦54センチ、横34センチ、深さ15センチ)214箱にのぼった。

 弥生期の土層からは、緑色の管玉石材や、東海、瀬戸内地方の土器片が多数出た。当時、すでに遠隔地との交流があった証拠だった。

 鎌倉期では、大型井戸の跡(直径約4メートル、深さ3・6メートル以上)に、平安後期の瓦片が補強材として埋まっていた。鳥羽離宮でも使われていた高級品で、天皇家との関係や、淀津の繁栄がうかがえた。

室町後期〜安土桃山期の堀跡から出土した備前焼の巨大なつぼを手に「水か酒をいれたのでは」と話す松永さん
 室町後期〜安土桃山期の堀は、長さ30メートル以上、幅4メートル以上になった。堀の中からは、年号入りの木簡「こけら経」や、中国の皇帝が使った景徳鎮の皿も見つかった。現在は山科区にある大徳寺の外周を囲んだ堀そのものの可能性が高まった。

 松永さんは「文献からは読み取れない情報が満載の貴重な資料ばかり。平安京や長岡京、淀城と関連づければ、2000年の日本史を追える」と胸を躍らせる。

 調査は、国の淀川水系河川整備計画に基づき、桂川の治水工事前に実施されている。終了後、遺跡は河床を下げるため掘削される予定。相次ぐ発見を受け、市と埋蔵文化財研究所は、今年度の調査目的を遺跡の全体像を把握する方針に切り替えた。

 今後、船着き場などの重要な発見があった場合、水害対策の工事と、遺跡保存という難しい課題が出てくることも予想される。

 全国的に有名なケースは、広島県福山市の 草戸千軒くさどせんげん 町遺跡だ。1961年、同じく河川整備に伴う調査で、川から中世の大規模集落跡が丸ごと出現。調査は約30年にわたり、自治体や地元保存会が議論を重ねた結果、出土品の展示場所として県立歴史博物館が開館した。実物大の中世の町並みも復元され、今も多くの人が訪れる。

 遺跡活用の模索は始まったばかりだ。

        ◇

 今回の成果は、9月6日から10月2日まで、京都市考古資料館(上京区)の速報展で紹介される。

  ◆淀津 =平安京の南約10キロ、桂川と宇治川、木津川が合流する淀川の起点にあった川港。他の津や伏見港とも共栄したが、1900年の集落移転で姿を消した。


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