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マスコミ

598荷主研究者:2009/07/12(日) 00:42:46

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20090524/CK2009052402000169.html
2009年5月24日 中日新聞
島田新聞 惜しまれ廃刊 最期まで地元愛した安原さん

安原基利さん

 半世紀にわたって島田市の話題を提供してきた地域日刊紙「島田新聞」。名物記者でレイアウト、印刷までこなした社主の安原基利さんが20日夜、市内の病院で亡くなった。66歳だった。安原さんの死とともに島田新聞も役割を終える。「必ず、復刊させてみせる」−。最期まで新聞発行にこだわった安原さんの死を悼み、廃刊を惜しむ声が絶えない。 (島田支局・浅野宮宏)

 島田新聞は1958年創刊。父勇さんらが発行していたが、勇さんが76年6月、61歳で急逝したため、安原さんが発行人を継いだ。それから33年。細身の体にカメラをぶら下げ、市政、事件・事故、祭りや行事、季節の移り変わりなどに至るまで、市内を毎日取材。休みは日曜日の午後とお盆、正月、そして3年に一度開かれる島田大祭「帯まつり」だけだった。

(写真右)前身の「島田週報」最終号(写し)、(写真左)最終号となった4月2日付の「島田新聞」

 一般紙や複数の地域紙がしのぎを削る同市で、島田新聞が異彩を放ったのは、「島田事件」をめぐる報道だった。

 女児を誘拐、殺害して遺体を遺棄したとして、被告の死刑が確定した同事件が、冤(えん)罪として全国に知られる前の64年6月に紙面で取り上げ、その後も疑問を投げかけ続けた。再審無罪を勝ちとった支援者の一人は「一般紙などが見向きもしない段階から、地元で取り上げたのは評価できる」と話す。

 酒豪で、毎晩のように記者仲間と夜の街に繰り出した。20年近く親交があるFM島田の中根弘貴局長代理(40)は「地元テレビの駆け出し記者のころ、酒席では『まず現場。必ず自分の目で確かめろ』なんて、いつも記者の基本をたたき込まれた」と振り返る。

 昨年10月中旬、がんを告げられ、手術したが、月末には仕事に復帰。強靱(きょうじん)な体力と、精神力に周りが圧倒された。2月、がんが再発。通院治療しながら記事を書き続けた。

 最終号となった4月2日付の通し番号は「13085」。市営温泉「伊太和里の湯」完成をトップ記事に、街の話題が4本。幼なじみで無二の親友の呉服店経営鈴木利明さん(66)は「正義感、負けん気の強さは人一倍。病気でも取材し、印刷して新聞を作る。並大抵の意志ではできない」と思いやった。

 「一時的だ。復刊する」。5月初め、廃刊を知って容体を気遣う取材先に電話をかけ、気丈にも答えたという。24日、荼毘(だび)に付される前、島田市大川町の島田新聞社を通って最後の別れを告げる。

 島田新聞 1953年ごろに発刊された週刊の「島田週報」を前身とし、58年6月4日、森川幸昌さんを発行人に創刊。61年1月、安原勇さんが発行人となり、76年6月、長男基利さんが引き継いだ。発行は一時は5000部近くになったが、現在は2500部。A3より一回り小さい横27・5センチ、縦39・5センチの裏表印刷で1部というスタイルは創刊当初から不変。市の移り変わりを記録した貴重な資料として市立図書館で保管されている。


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