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宇宙

379名無しさん:2011/05/17(火) 22:28:32
 その時、高梨さんの妻やよいさん(59)は車で帰宅途中だった。対向車の人に津波が来ると知らされ、Uターンして海と反対方向に逃げた。

 「今集会所の屋根に避難している」「家も車も流された」。夕方になると、携帯電話のメールで夫と連絡を取り合った。「寒くて大変だ」「助けてくれ」。夫は屋根の上からメールでSOSを出している。やよいさんは、救助要請したが警察は混乱状態で取り合ってもらえなかった。警察署に身を寄せて自身の身の安全を確保したが、夜になると携帯電話の電池が切れ、連絡は途絶えた。

 翌12日朝、高梨さんたち4人は股下まで泥につかりながら、歩いて仙台空港に避難していた。そのことを知らないやよいさんは、地元紙の朝刊に掲載された空撮写真に食い入るように見入った。私が北釜地区を上空から撮影し、共同通信が配信した写真だった。

 やよいさんは、夫がいるはずの集会所周辺をルーペで拡大して見たが、紙面に印刷された写真では、夫が写っているのか分からなかった。人づてに夫が無事だと聞いたのは、14日午後。夫婦が再会できたのは16日になってからだった。

 もともと、北釜地区はのどかな田園地帯。畑の中に民家が点在し、約60軒の農家がチンゲンサイやコマツナなどを栽培していた。

 高梨さんは、15年前に農協職員を辞めて専業農家になり、約1ヘクタールの畑で主にチンゲンサイを育てていた。6年前に新築した自宅は津波に耐えたが、1階は水につかり、住めなくなった。ローンが残り、震災3カ月前に250万円で買ったトラクターも流された。

 高梨さん夫婦は今、市立名取二中の避難所で暮らす。畑は全滅したうえ地盤も沈下し、地区の人々の生活基盤は完全に破壊された。「家に戻ると悔しくて涙が出る」。高梨さんは「死んだ方がましだった」と思うことさえあったという。津波で親類が1人亡くなり、74歳になる姉の行方は今も分からない。

 それでも、高梨さん夫婦は、知り合いの家族と一緒に避難所近くの耕作放棄地を耕し、4月中旬からコマツナの栽培を始めた。「みんなで協力してやればできると誰もが思っている」。トラクターや農機具は知り合いのつてで借り集めた。

 4月中旬、地区の住民たちは名取市長に集団移転と移転先での農地の確保を陳情した。今月末には、仮設住宅の入居も始まる。復興の足音が、遠くから少しずつ聞こえてきている。


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