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東京都議選スレ
92
:
とはずがたり
:2005/02/18(金) 03:06:51
>>91
解説感謝。調べてみました。
http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/topic/t035.htm
市民の党とは?
どのような戦術をとろうと、法令に違反しない限りは自由だとは思います。今回の乱行は、共産党にさえ非難されるのだから、「彼女達にセンスがなかった」というだけの事。ただ、共産党は委員会に出席して発言出来ている事と、市民の党が共産党を嫌っている事は割り引いて考える必要はあるでしょう。
実は、市民の党は新左翼に源流を持ちます。共産党が大嫌いで、今回のようなパフォーマンスが大好きなのは、新左翼系市民の行動パターンです。以下、様々なHPの情報をまとめると、市民の党は以下のような生い立ちを持つようです。
まず、某サイトのこのページ、見知らぬ左翼団体でも、系列の分類をしていてくれているので、大変に便利です。それによると、
「市民の党は」共産同系である
との事です。以下に、もう少し詳しい年表を以下に掲げます(マル共連HPより)。
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG21/7554.html
1974年 法政、上智、京都、同志社大などのノンセクトグループが日本学生戦線結成。
1979年 日学線及びOB組織「三里塚を支援する労働者の会」を母体に「マルクス-レーニン主義・毛沢東思想に立脚した新党」結成を掲げ、立志社結成。以後、北方領土返還運動、ポルポト派支援運動を推進。成田から撤退、市民運動路線へ。
1983年5月 田英夫、横路孝弘、八代英太らを呼び掛け人にMPD(平和と民主運動)結成。
1990年9月 大衆党結成。
機関紙 「新生」、指導者(事務局長) 斉藤まさし
90年以後の流れは調べてないので分かりませんが、地方議会に若干の議員を抱え、「ミニ政党」として一定程度、定着しているようです。
代表者である「斎藤まさし」は、共産同系の「日本マルクスレーニン同盟(ML同盟)」の解体後、マルクス主義青年同盟(マル青同)の結成委員会に参加し、その後、法政、上智、京都、同志社大などのノンセクト系を集めて、新たなセクト「日本学生戦線(日学戦)」を立ち上げました。この頃の機関紙は「アカハタ」だったとどこかに書いてありました。
この日学戦、えらく中国がお気に入りだそうで、以後の行動も中国中心です。79年以降、「三里塚を支援する労働者の会」と合流し、機関紙は「新生」という名に。熱烈なポルポトの支援運動をしますが、これは中国がポルポトを支持していたからでしょう。その後虐殺が起こりますが、彼らはポルポトを悪者には出来ませんから、「ソ連の陰謀」だと言い出して、北方領土返還運動を展開します。これが82年。
北方領土返還運動など、他セクトには許容できませんから、日学戦は目を付けられてしまいました。どうしようもなくなったので、大衆市民運動路線に転換し、「平和と民主運動(MPD)」を83年に設立。田英夫とか、横路孝弘などのおなじみのメンツが発起人で、「新生」という機関紙名を引継ぎます。
しかし87年頃より、カンボジア武力紛争の停止気運が高まり、MPDは何故か姿を消してしまいました。その後、90年に「大衆党」を立ち上げ。多摩地区に、地方議員をどんどん送り込みます。武蔵野市に山本あつし・ひとみ夫妻が大衆党候補として突如現れた様子は、以下のページが詳しいです。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/loc-6.html
94年頃、社会党は村山総理を輩出しましたが、「方針転換」をしてしまい、それに怒った様々なメンツが社会党を離脱していきます。田英夫もその一人で、「新党・護憲リベラル」を発足させます(この経緯は、このページが詳しい)。で、大衆党は、この「護憲リベラル」と合流します。山本ひとみ氏も、平成7年(95年頃?)は、護憲リベラルから出ています。
護憲リベラルはその後すぎに「平和・市民」と変えます(95年か?)。以下のJRCLのページに、「平和・市民」が選挙で敗北したときの事を詳しく述べています。
http://www.jrcl.net/web/frame06d.html
この選挙の敗北で「ダメだこりゃ」という事になり、「平和・市民」はあっという間に解散。田英夫は社民党に復帰。旧大衆党は「市民の党」となり、今に至ります。
市民の党は東京近郊で地方議員を何人か出しています。
いせ志穂(盛岡市議)
伊沢けい子(元三鷹市議)
山本あつし(元武蔵野市議)
山本ひとみ
中島やよい(都議落選)
吉田やすお(宇治市議落選)
長谷川くみ子(相模原市議)
杉本英騎(三鷹市議)
自らの選挙以外でも、さまざまな選挙で実働部隊として活躍しているそうです。例えば、立川の川田さんとか、千葉の堂本さんなど。
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