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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

2とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1046858414.html
大東亜戦争
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/03/05(水) 19:00

大東亜戦争を史実を元に冷静に検証してみましょう。
主に
大東亜戦争開戦日(昭和十六年十二月八日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
の大東亜戦争そしてGHQの占領政策を分析してみましょう。
大東亜戦争から話題がそれても構いませんが、
大東亜戦争が話題の中心であることを忘れず
大日本帝国憲法施行日(明治二十三年十一月二十九日)
から
サンフランシスコ講和条約発効日(昭和二十七年四月二十八日)
まで
のことを話してください。

3とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46
http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071296674.html
旧日本領再考
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:24

旧日本領である
台湾、南樺太、朝鮮、南洋諸島などに
におけるかつての日本人の足跡を辿ってみましょう。

4とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1071297789.html
満洲研究
1 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/12/13(土) 15:43

満洲に関するスレッドです。
満洲に関する話題でしたら
高句麗からの歴代王朝、満洲国、満鉄、中国東北三省の現状
に関することなどなど何でも構いません。
満洲は古くは高句麗、近代では満州国と
日本と非常に縁のある地域です。
そんな満洲について皆さんで語ってみませんか?

5おりーぶの木:2004/01/15(木) 18:46
スレ立て乙でつ。
新撰組が始まりましたので幕末ものを改めて読もうと思っている今日このごろ。

6とはずがたり:2004/01/15(木) 18:46

http://jbbs.shitaraba.com/study/2246/storage/1041730592.html
戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36

サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
  森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

7とはずがたり:2004/01/15(木) 18:49
その他の関連スレッド

第四十回衆院選後の政局を振り返る
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1039260401/l30

大日本帝国憲法改正新憲法制定
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1042000975/l30

8とはずがたり:2004/01/15(木) 18:52
>>5
幕末の激動から帝国主義,現代史と面白い話題は満載なのに余り盛り上がらないので統一スレッドを建てました。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』でも読んでみようかなあ。

9おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:09
>>8
「世に棲む日々」をまだ読了してないのでそれを読もうかなあと思ってます。

10とはずがたり:2004/01/15(木) 19:14
恥ずかしながら司馬遼太郎,なぜか(メジャー過ぎてかな?)まだ一冊も読んでないのです…。

時間が出来たら読んでみたいがどの辺から読んだらいいかな?

11おりーぶの木:2004/01/15(木) 19:30
>>10
やっぱ「竜馬が往く」でしょう。基本ですね。「関が原」もイイッすよ。

12とはずがたり:2004/01/16(金) 17:39
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2246/1068688996/288
>1947年に日本進歩党が民主党(芦田均、犬養健ら)に衣替えしたときは、
>市場原理を重視する「日本自由党」と、弱者救済のために市場への国家介入を主張する「民主党」という、
>当時の感覚では保守右派と保守左派、今日で言う保守とリベラルに対応する分類になっていました。

この辺の話しですな。

(1945頃)   (1947-8頃) (1950)   (1952)  (1954)    (1955)       
日本自由党─┬民主自由党─自由党─────────┬─┬┐
______↓___↑___________日本自由党┤├自由民主党―→
日本進歩党―民主党─┴─国民民主党─改進党─日本民主党┴┘
_____________↑
日本協同党─国民協同党──┘

民主党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minsyutou
民主党は「進歩党で、幣原総裁に批判的な若手議員らを中心に、自由党内で吉田首相と対立していた芦田均を引き抜く形での新党結成が計画され、1947年3月31日、進歩党を母体に、自由党離党の芦田らに国民協同党や無所属の議員も加えて結成。修正資本主義的な中道政党の立場をとった」

民主自由党
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jiten.html#minjitou
1948年3月15日、日本自由党①119名と民主党①を離党した幣原派らで作る民主クラブ36名、無所属その他4名が合同して結成(翌日6名脱党)。

13憲政擁護者:2004/01/17(土) 14:24
>>12
おお、早速こちらに議論を移して下さいましたか!まさしくその辺の話です。
反吉田派保守政党については、民主党スレからの以下のコピペをご参照下さい。

>仰る通り、大日本政治会系政治家が集った日本進歩党(1945-47)、戦前派政治家が復帰して生まれた改進党(1952-54)、
>脱吉田路線を掲げた日本民主党(1954-55)は、国家主義的傾向が見られました。
>しかし、進歩党は戦前派政治家の大量公職追放で壊滅的打撃を受けたため、路線転換を図り、
>後継政党たる民主党(1947-50)、及び国民協同党との合同で生まれた国民民主党(1950-52)は保守中道路線だったのです。
>また、立憲政友会と立憲民政党が政権を争った昭和初期は、むしろ政友会が国家主義的で、民政党が国際協調派でしたね。

14とはずがたり:2004/01/17(土) 15:34
上の議論の引用とかの便もありますし一応民主党スレで議論は続けましょうか。
向こうでの議論が一段落したらこっちへリンク貼っつけときます。

15憲政擁護者:2004/01/18(日) 11:21
民主党スレの戦後史論も、第2保守党から吉田茂個人の話に移っています。
そこで、こちらで吉田の話をしたいと思います。

吉田は根っからの自由主義者であり、自由主義路線こそが日本の政治・外交の進むべき道と確信していました。
国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
また、吉田は自由主義の強い英米との協調によってこそ、日本の自由主義が達成されると考えていました。
それ故に戦前は日英同盟の復活を熱望し、戦後は首相として日米安保条約を締結したのです。
とはいえ、決して米国追従の政治・外交を志向していたわけではありません。
現に首相在任中、GHQとは何度も渡り合っています。

吉田は自由主義者として、極右・極左両方の全体主義を毛嫌いしていました。
戦時中に終戦工作をして憲兵に捕まったり、マッカーシー旋風に併せて共産党幹部を公職追放したのです。
因みに、吉田は広田弘毅内閣で外相に起用される予定が、自由主義者故に軍部に話を潰されました。

ただ、吉田は自由主義者ではあっても、議会軽視と批判されるなど、民主主義者ではなかったと言われています。
古典的な自由主義者として、「民主政治は無知蒙昧な大衆による衆愚政治を招く」と考えていたようです。
ですから、吉田を「自由主義者」ではなく「リベラリスト」と書くと、今日の感覚では間違っていることになります。
またそれ故にエリート嗜好で、池田勇人や佐藤栄作に代表される官僚を次々と議会に送り込んで登用し、
大衆迎合的で政治理念がないとして戦前派党人政治家をこよなく嫌っていました。
因みに、河野一郎が吉田に嫌われた筆頭格でしたが、孫の麻生太郎が河野の息子・洋平の側近となったのは皮肉ですね。

一方で吉田は明治人の気風を持ち、日本の伝統を愛する民族主義者でもありました。
これは実父が土佐藩士で自由民権運動に携わったことと、大久保利通の次男・牧野伸顕が岳父だったことが影響しています。

吉田はよく、「軽武装経済優先路線」を築いたと言われますが、吉田本人の意図は違ったといわれています。
つまり、日本に共産主義革命が起こらない様にするために、当面は民生の安定が最優先であり、再軍備の余裕はないが、
それ相応の経済力を持つに至った場合には、専守防衛のための軍隊を持つべきである、と考えていたようです。
これは数々の国会答弁では触れていないので、そういう誤解も無理ないでしょう。

因みに私の思想は、吉田茂に関する著作を読み漁ったことが大いに影響しています。

16とはずがたり:2004/01/18(日) 11:37
> 国際協調と自由貿易を進めることにより、世界や日本自身の発展を導くことができる、という訳です。
まあこの辺は賛成ですね。経済繁栄すればこその弱者救済も可能と思ってますので,自分の中で左翼と自由競争は矛盾しません。

民主政治が衆愚政治に堕する危険もよく理解できますが(ばらまきの自民党政治がだらだら続く様はまさに),有権者の見識を期待しております。

17憲政擁護者:2004/01/19(月) 00:54
>>16
これは「参加民主政治論」の受け売りですが、
有権者の見識というのは、やはり政治参加の教育効果によって得られるものだと思います。
しかし、専門知識の多い国政レベルでの直接的政治参加には難があるので、
生活に身近で、一般有権者の判断し易い、基礎自治体レベルから始めるべきでしょう。
戦後日本は民主化が進んだと言っても、まだまだこの点で遅れていると思います。

18とはずがたり:2004/03/04(木) 21:23
http://www2.asahi.com/senkyo2003/localnews/kagawa/OSK200310140025.html
《検証 香川の総選挙史:上》小選挙区制で「自民王国」

 香川は、3つある衆議院小選挙区を自民が独占し、他党の国会議員がいない「自民王国」だ。しかし、かつて70年代には、県知事と高松市長が「革新」で、野党勢力を勢いづかせていた。どこにターニングポイントがあったのか。政権交代を問うといわれる今回の総選挙を前に、香川の選挙史を振り返る。まずは革新の動きから。

 「前川さんをかつぎ出した社会、共産、公明、民社各党幹部のどの顔もゆるみっ放し。そこへかけつけた革新の脇信男・高松市長と『新しい地方政治をやろう』とがっちり握手した」(74年8月27日付朝日新聞)

 元香川大学長の故前川忠夫氏(09〜88年)は野党4党に推され、この年の知事選で7選を目指す現職を破って初当選した。

 元社会党衆院議員の三野優美(よしみ)さん(72)は振り返る。「このころは『政権が取れる』という情熱にあふれていた」

 この時代、香川の革新の「看板」は、三野さんが秘書としてつかえた故成田知巳氏(12〜79年)だ。香川郡多肥村(現高松市多肥上町)生まれ。東大から三井鉱山などを経て、47年に旧香川1区で初当選。以後76年まで12回連続当選し、社会党委員長に上り詰めた。

 故脇信男氏(19〜97年)は、成田氏の秘書から高松市長になった。71年に社共共闘で初当選し、連続6期。全国革新市長会長も務めた。

 前川氏の知事当選は、脇氏の初当選から3年後のこと。「社会・公明・共産・民社」の4党共闘は当時でも珍しかった。以来3期12年、憲法擁護を看板に掲げて県政を担った。

 81年9月の朝日新聞に掲載された「新人国記」で、前川氏は「香川の革新の強さ」をこう語った。「琴平などは早くから全国の人が集まって都会化し、進歩的な人が多かった。農民運動も昔から盛んだった」。こんぴらさんに代表される「都会」としての活気が、革新を支えたという見方だ。

 それがなぜ、30年の時間の中で「自民王国」に変貌(へんぼう)したのか。

 三野さんは「小選挙区制のためだ」と憤る。三野さんは86年、90年、93年と旧香川1区で3期連続当選し、成田氏以来の社会党の議席を守った。

 しかし、与党となった細川政権時代の94年1月、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革4法が成立。三野さんは党議に従わず、本会議で反対票を投じたが、流れは変わらなかった。

 一方、共産党県委員会の田村守男委員長(54)は「最初は『反自民』で県政をつくったのに、前川さんの引退後、社会党は自民と手を握った」と社会党を批判する。

 政権が取れると思った時代に取れず、取ったと思えば流れが急転する。自社さ政権が誕生すると、社会党は衰退。96年の選挙で、自民が香川の3小選挙区を独占。その時、社民党(旧社会党)は、四国全体で議席を失っていた。
 (10/12)


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