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化学・薬品産業総合スレッド
488
:
荷主研究者
:2009/10/31(土) 19:31:23
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=15034&catid=350
2009年2月14日付 宮崎日日新聞
21…3町村合併
■円満進出の「副産物」
大量に生産していたアンモニアを原料にする再生繊維・ベンベルグに目を付けた野口遵は1928(昭和3)年、米国に渡りドイツ・ベンベルグ社と特許権導入の契約を結んだ。当初は、この年の6月に建設に着手した朝鮮半島の興南工場に隣接して造る腹づもりだった。しかしその後、興南の水質が繊維産業に向かないことが分かり、延岡へと方向転換する。
滋賀県でレーヨン工場を展開していた野口が買収した旧岡富村の水田約40ヘクタールは、27(同2)年の昭和金融恐慌などの影響で手つかずとなっていた。しかし、ベンベルグ工場はアンモニア合成工場に隣接する旧恒富村に建設することになる。
野口はレーヨン事業を、日本綿花の喜多又蔵と共同経営する旭絹織で展開していた。しかし同じ繊維にもかかわらず喜多とそりの合わなかった野口は29(同4)年4月、別会社の日本ベンベルグ絹糸を設立して事業を始める。
同年12月には延岡を訪れて岡富、恒富両村の有志を前に「排水と原料の問題で岡富では困る」と理由を説明しているが、もともと岡富の土地は旭絹織が買収したものであり、物理的に岡富への立地は不可能だった。だが、地元ではその経緯をよく理解していなかったようである。
恒富側は大喜びして土地の無償提供を引き受けてしまう。しかし、一転して買収費用30万円を捻出(ねんしゅつ)できないことが分かり融資を申し出たところ、野口は「よろしい、お貸ししましょう。しかし、来年の3月までに(延岡町、恒富村、岡富村の)3町村の合併ができたら、お祝いにみんな差し上げます」と言った。
□ ■
一方、恒富に横取りされたと受け取った岡富の有志8人は年が明けた元旦、大分県別府市の別荘に野口を訪ね直訴する。気の毒に思った延岡町長の小田彦太郎、東海村長の甲斐伊佐男も同行していた。しかし、立地が変更するわけがなく岡富の有志は納得せぬまま去った。その後、残された小田と甲斐に対して、野口は合併の話を打ち明け「合併すれば工場がどこにできても同じだ」と語った。
旧岡富村が財政的に困窮していたことを野口は見抜いていたのだろう。延岡町長の小田らに合併の打診を受けた岡富村はこの話に乗る。買収資金の30万円がのどから手が出るほど欲しい恒富村の事情もあり、同年4月に工都・延岡市の土台となる新延岡町が誕生したのである。ちなみに、この合併の経緯があるが故に初代延岡市長である仲田又次郎は野口を「延岡の母」と表現した。
【写真】野口が経営参画した旭絹織が1926年に買収した旧岡富村の敷地にはレーヨン工場が進出する。旭化成の事業撤退から10年が経過しようとしている現在も当時の建物が残る
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