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化学・薬品産業総合スレッド

487荷主研究者:2009/10/31(土) 19:30:46

http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14970&catid=350
2009年2月13日付 宮崎日日新聞
20…事業多角化
■合成工場がきっかけ

 アンモニア合成工場の建設現場には、技術移転元であるカザレー社からイタリア人技術者が派遣された。発明者であるルイギ・カザレーも1923(大正12)年9月に延岡を訪ね、完成を見届けた11月まで滞在している。カザレーらの宿泊用として野口遵の日本窒素肥料は洋風木造施設を建てたが、この建物が「向陽倶楽部」である。

 化学工業上極めて重要な化学物質であるアンモニアをただ同然の空気中の窒素と、水を分解した水素による合成に成功したことは、化学肥料である硫酸アンモニウムの生産コストを従来の半分にしただけでなく、水の電気分解によって生まれる酸素を使った硝酸や硫酸、火薬など事業が芋づる式に多角化するきっかけをつくった。

 延岡で軌道に乗ったアンモニア合成工場を、野口は26(昭和元)年には熊本県水俣に設置。さらにその5年後には朝鮮半島で、巨大なダム開発で豊富な電力を得ることによって「可及的に低廉良質なものをつくる」という信念をアンモニア合成による化学肥料の大量製造で実現した。この過程を見ると延岡が試験プラントのような役割を果たしていたことも分かる。以来、戦後も含めて延岡は多くの新製品の試験生産の基地となり、旭化成80年史の表現を借りれば、グループの「心のふるさと」になった。

   □   ■

 カザレー式合成法の技術移転を正式契約するために22(大正11)年に渡欧した際、野口はドイツでグランツシュトフ社から再生繊維・レーヨンの製造特許権を取得している。

 旭化成のもう一つの祖業とも言える繊維事業をさかのぼると、滋賀県の琵琶湖畔で20年に操業を開始した旭人造絹糸にたどり着く。技術的に未熟だったがために翌年には操業停止に追い込まれたが、関西財界のあっせんで日本綿花(現・双日)の社長喜多又蔵と野口がスポンサーとなり新会社・旭絹織として事業を再開することになった。ちなみに喜多と野口は後に経営上で意見対立、喜多が29(昭和4)年に退任、経営権は野口が握っている。

 当時としては最新鋭のドイツ式製造工程に工場を一新し、24(大正13)年に操業が開始された。高品質のレーヨンは市場で好評を博した上、競合するメーカーが帝国人造絹糸(現・帝人)しかなかったこともあり、作れば売れる状況だった。野口は新工場の建設を延岡市(旧岡富村)に決定し、26年8月には祝子川の用水路開削などについて県から許可を得た。

【写真】工場完成を見届けてイタリアへと帰国するカザレーのために野口ら幹部は1923年11月10日に送別会を開き、旧旭化成向陽倶楽部前で記念撮影をした。前列中央にカザレーが座り、右隣に野口、左には番頭格である市川誠次が並んでいる(旭化成延岡支社提供)


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