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化学・薬品産業総合スレッド

486荷主研究者:2009/10/31(土) 19:29:52

http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14944&catid=350
2009年2月11日付 宮崎日日新聞
19…恒富村議会
■住民説得し用地買収

 愛宕山の上で野口遵は「これくらいの土地が欲しい」とステッキで示し「村で責任を持って買収してくれ」と言ったが、同行した恒富村議会議員の山本弥右衛門ら地元の名士たちは即答できなかった。あまりにも性急な要請に不意を突かれたのだろう。結局、野口の宿泊先の吉野屋旅館(延岡市南町)で夕食まで付き合い、引き受けることを決めた。

 気の早い野口は大阪の日本窒素肥料本社へと急ぎ、1922(大正11)年3月26日の取締役会で延岡工場の建設を正式決定した。その後、大気中の窒素と水を原料とするアンモニア合成で「空気が薄くなる」などのうわさが広まったにもかかわらず、恒富村議会の議員らは住民を説得して約65ヘクタールの立地予定地の買収をわずか4カ月でまとめてしまう。

 この時代の恒富村議会の顔ぶれを見ると、市町村議の社会的地位が現代と比較にならないほど高かったことに驚かされる。一例を挙げれば、延岡電気所の所長を兼任していた笠原鷲太郎は東京帝大を卒業後、内藤家に請われて日平銅山をはじめとする産業振興に尽くし衆人の尊敬を集めていたし、三宅忠己は宮崎銀行頭取を務めた人物である。

 ほとんどは延岡藩主を務めた内藤家が1899(明治32)年まで開塾していた私塾・亮天社の塾生だった点も特筆に値する。脱亜論を唱えた福沢諭吉の慶應義塾に18歳まで籍を置き、公私ともに福沢の薫陶を受けた最後の藩主内藤政挙によって産業人としての高度な実学を徹底的にたたき込まれた人々だった。

   □   ■

 1922年8月、日本窒素肥料は延岡で国内初のアンモニア合成工場建設に着手する。現場を指揮したのはわずか37歳の工場長谷口喬一であった。野口が「あの時の大将は谷口君」と振り返る通り、工場建設のほとんどを谷口に任せきりにしている。

 新興企業である日本窒素肥料の技術陣は若い世代で占められていた。旭化成社史によると、33(昭和8)年の時点では100人を超す大卒・高工卒の技術者が集まり、うち60人が延岡で働いていた。野口は若い技術者と議論することを好み、時に自由に任せ、時に直接指示していた。戦後、旭化成中興の祖と呼ばれた宮崎輝が直接若い社員を動かして建材事業などの「三種の新規」を立ち上げた話をほうふつとさせる。

 アンモニア合成工場は23年10月までに完成した。基礎化学品であるアンモニアを空気と水で大量に製造することを真っ先に可能にしたことで野口は事業界の巨人への階段を上り詰めることになる。

【写真】1923年、延岡に完成した日本窒素肥料アンモニア合成工場。用地買収を4カ月で終わらせたのをはじめ、亮天社で教育を受けた旧恒富村のリーダーたちが積極的に野口遵に協力した(写真は旭化成提供)


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