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化学・薬品産業総合スレッド

485荷主研究者:2009/10/31(土) 19:29:01

http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14904&catid=350
2009年2月10日付 宮崎日日新聞
18…立地変更
■八代から延岡に即決

 カザレー式アンモニア合成法の開発者であるルイギ・カザレーと正式契約を結ぶため、野口遵は1921(大正10)年、再び渡欧した。12月には契約書に調印し、翌年いよいよ野口の事業を総合化学工業へと飛躍させる工場の建設に着手することになる。

 アンモニア合成工場は当初、カーバイドから石灰窒素、硫酸アンモニウムを一貫製造していた熊本県八代市の鏡工場に建設する予定だった。旧鏡町と旧文政村の中間地点にある約35ヘクタールの広大な空き地を建設予定地とし、カザレーと技術移転で合意した翌年3月10日には起工式を行う運びとなっていたのである。

 しかし、野口は鏡での工場建設を取りやめた。式典に野口が出席することを知った住民が、会社側に環境問題で補償を求めたためだと言われるが、用地を確保していた割にはあまりにもあっけない。中止の判断は起工式の直前、もしくは当日だった可能性もあるが、一転して野口は延岡進出へとかじを切る。しかも即決に近い状況だった。

 合成工場創業当初から旭化成に勤務した市山幸作著の「創魂 野口遵」によると、野口は鏡での建設中止を決意した同じ月の、おそらく15日から18日の間に工場の敷地選定のために延岡へ乗り込んだ。後に初代延岡工場長を務めた谷口喬一を事前に派遣し、立地先を港のある土々呂や門川まで広げて具体的な予算も含めた調査をさせていた。この用意周到ぶりを見ると、鏡での立地をやめる以前から野口が延岡進出を検討していたと考えた方が合点がいく。

   □   ■

 延岡を訪ねた野口を旧恒富村平原の大地主で村議会議員の山本弥右衛門が出迎えた。野口の日本窒素肥料と共同出資で五ケ瀬川発電所の建設を進めていた本県選出衆院議員の長峰与一と、旧制宮崎中では同級で親友の間柄である。その縁があっての面会だったと推測される。

 山本はまず延岡藩最後の藩主である内藤政挙が経営していた延岡電気所へと案内する。内藤家所有の日平銅山(現延岡市北方町)で利用した余剰電力を延岡市街地へ送っていた電力会社だが、ここで所長を務めていた笠原鷲太郎と話し合った。内容は不明だが、延岡電気所は工場建設中に配電で野口に協力する。

 さらに恒富村役場では別の村議も加わって愛宕山の展望所へ登り、町並みを一望した。この時、野口は持っていたステッキで現在の愛宕地区工場群付近にぐるりと輪を描き、「これくらいの土地が欲しい」と言った。

【写真】野口は当時は珍しい自動車に地元の名士を乗せて愛宕山(右奥)のふもとまで行き、見晴らしのいい場所へ登った。そこでステッキで輪を描きつつ「これくらい土地が欲しい」と言った(手前は旭化成恒富地区工場群)


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