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化学・薬品産業総合スレッド
484
:
荷主研究者
:2009/10/31(土) 19:27:59
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14903&catid=350
2009年2月8日付 宮崎日日新聞
17…立地の経緯
■柿原政一郎協力願う
なぜ旭化成が延岡市に立地することになったのだろうか。北川、祝子川、五ケ瀬川、大瀬川の4つの大河が延岡湾に流れ込む世界的にもまれな地理的特殊性ゆえに、創業者の野口遵が目をつけたからだとする説もある。しかし、それを裏付ける資料は何も残っていないし、野口が日記を記すような性格ではなかったことも手伝って不明確な部分が今も多く残る。
ところで延岡にアンモニア合成工場を建設する前後、野口は広島市に自宅を構えていた。地元に一大化学工場を建設する野望を持っていたからだが、豊富な水量の太田川の水利権を獲得したにもかかわらず、結局地元には発電所も工場も造らなかった。
地元財界に冷遇され中国5県の電力統合という目標が頓挫したからにほかならない。水利権はその後、付き合いのあった島根県の電力会社にあっさりと売り渡した。
旭化成の延岡進出に関しても野口の合理主義を少しだけ頭の片隅に置いて考えた方がいいだろう。本県出身の衆院議員だった長峰与一の要請を受け1920(大正9)年に着工した日之影町の五ケ瀬川発電所の場合もそうだ。
本県工業振興のための電力開発であることは知っていたはずだが、野口は当初、熊本県八代市の鏡工場への送電を予定していた。そこから一転して延岡進出へと気持ちが傾いたのは、一人の男の説得によるものだった。
□ ■
野口がアンモニア合成法の特許を取得する前後、県内では県外への送電反対運動がうねりとなって起こっていた。その政府対策委員を務めていたのが柿原政一郎であった。
高鍋町出身である柿原の履歴は興味深い。東京帝大哲学科を中退後、同郷で孤児救済に生涯を捧げた石井十次のつてで倉敷紡績に入社。岡山県で新聞社経営などに携わった後、20(同9)年5月の総選挙に立候補し、当選している。広島では臨海埋め立て地の再開発で活躍した人物でもある。
財団法人・正幸会が出版した「柿原政一郎」によると、地元財界にまったく相手にされなかった広島時代の不遇を知っている柿原は野口を訪ね、腹を割って話した。「真に腰を入れて宮崎で事業を始めてくれたら…」と考え、用地、電力、工場労力の調達に全面協力するむねを伝えた。
延岡に新規立地するよりも既存の鏡工場を拡張してアンモニア合成工場を建設した方が電力、労力的に見てもコストを抑えられるのは誰の目から見ても明らかであった。野口は「鏡か延岡か」で迷っていたのである。
【写真】延岡市の旭化成愛宕地区工場群には1923年に建設された当時のれんが造りのアンモニア合成工場跡が今も残る。85年の歳月を経た建造物は倉庫などに使われているが「産業遺産」と呼ぶにふさわしい
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