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化学・薬品産業総合スレッド
483
:
荷主研究者
:2009/10/31(土) 19:27:09
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14864&catid=350
2009年2月7日付 宮崎日日新聞
16…カザレー法
■言い値で特許を購入
わずか一代で旧財閥に匹敵する企業グループを築いた野口遵は、内面的にも決してひとくくりに表現できない人物であった。60銭の麦わら帽子とニッケル製の時計鎖を愛用し、汽車賃の過払いには自ら駅の窓口で抗議して取り返すような男だったのに、洋行先のローマではカザレー式アンモニア合成法の特許をルイギ・カザレーの言い値である100万円(現在の約10億円)で購入を決めてしまう。
2週間以内に予約金10万円を支払うことになり、大阪の本社に野口は「果たしてうまく行くか否かはなお研究を要するが、もし買わずに他人が買えば、この発明の実用化で会社はつぶれる。100万円でつぶれるのだ」と少々脅しを込めて打電した。戦前の総合商社・鈴木商店もカザレー法に関心を示していたからだ。
契約を済ませた野口ら一行3人は1921(大正10)年の春、意気揚々と帰国した。この旅で野口はローマのスニア・ビスコーザ社を訪ねてレーヨン工場も視察。数点の見本を日本に持ち帰っている。
□ ■
「長峰与一、柿原政一郎、山本弥右衛門さんたちです」。野口の七回忌を記念した延岡工場関係者の座談会で、初代延岡市長の仲田又次郎はカザレー式アンモニア合成工場建設当時の地元協力者として3人の名前を挙げている。
長峰与一とは本県1区(宮崎、児湯、南那珂三郡)選出の衆院議員で、五ケ瀬川の水力発電を開発し、工場を誘致しようとした人物である。長峰は1919年春に野口の後見人である中橋徳五郎に会い、協力を要請。政界の重鎮でもあった中橋は原敬内閣に文相として入閣したのを機に日本窒素肥料会長職を前年、退いたばかりであった。
この時、中橋から「僕の関係していた会社に野口という非常にやり手がいる。彼に会って話してみないか」と紹介された。さらに野口を訪ねたところ、早速日之影町の立地予定地を調査することになり、翌年5月には発電会社「五ケ瀬川電力」が設立された。
その会社の社長には長峰の兄伊作が就任したが、取締役には宮崎銀行頭取の大崎敬方のほか、後に有力な工場建設協力者となる山本弥右衛門が取締役に入っている。山本は旧恒富村平原の大地主で、長峰とは旧制宮崎中で同級生の間柄であった。
柿原政一郎は高鍋町出身で、1920年5月の総選挙では長峰と同じ選挙区から立候補し当選した。当時、野口が自宅を構えていた広島で土地開発などにも携わり、そこで野口と接点が生まれたといわれている。
【写真】旭化成創業の地である愛宕地区工場群の正門。進出当初は延岡工場と呼ばれ、後には薬品工場という名称で市民に親しまれた
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