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化学・薬品産業総合スレッド

479荷主研究者:2009/10/31(土) 18:50:22

http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13721&catid=303
2008年11月12日付 宮崎日日新聞
選択と集中 2…荒療治
■不振部門丸ごと譲渡

 旭化成の創始者・野口遵が延岡市の愛宕地区で1922(大正11)年にアンモニア合成を始めて以来、グループの歴史は事業の多角化に彩られている。戦前は、生み出されたアンモニアで再生繊維ベンベルグを生産。さらには繊維レーヨン原料のカセイソーダも製造し、副産物の塩素、酸素を火薬原料の硝酸や人工調味料の化学合成に使った。

 戦後も61年から24年間社長を務めた宮崎輝の下で「三種の新規」と呼ばれる住宅、化学繊維、合成ゴムのほか医薬、電子部品へ次々と新規事業を広げ、会社の規模を拡大。多角化戦略を推し進めた宮崎の口癖は「何が何でもやり通せ」だったという。

   □      ■

 中興の祖と呼ばれる宮崎が推進した拡大成長路線から旭化成は90年代末、大きくかじを切る。85年のプラザ合意に伴う円高、93年のバブル崩壊と金融不安による厳しい経営環境の中、「負の遺産の整理」と「選び抜かれた多角化」による選択と集中を始めたのだ。

 その先鞭(せんべん)をつけたのが99年1月に発表された食品部門の日本たばこ産業への事業譲渡だ。系列8社と本社の不振部門を従業員約1千人を含めて丸ごと売り渡す、という荒療治だった。

 「単純な撤退ではなく事業を売るというのは初めての経験だった。会社の揺るぎない構造転換への決意を感じ、衝撃を受けた」。当時、延岡支社勤労課長として人員再配置で労働組合との折衝などに奔走した上荷田洋一(55)=現・同支社総務部長=は振り返る。延岡の子会社・旭食材、佐土原町の日本食材加工も譲渡対象になっていた。

 全社的にはこの間、経営本体の刷新も矢継ぎ早に実施された。2000年4月には一定以上の利益を上げる事業を見極める経営指標「EVA」(経済付加価値)を導入し、規模拡大路線と決別。03年10月には経営判断の迅速化などのために繊維、エレクトロニクス、化学、医療など各事業会社と持ち株会社による分社化を進めた。

 県内関連では2000年の門川ソーイング閉鎖、01年の日向医薬工場閉鎖が相次いだ。1995年から中止していた地元高校生採用は構造転換が完了した後の07年春まで再開されなかった。当時、延岡・日向地区で約7千人だった正社員数は3千人にまで圧縮した。

 改革ともリストラとも表現される旭化成の構造転換。中でも県北にとって1933年以来操業を続けていたレーヨン工場の撤収は、地域に衝撃を与えた一つの事件だった。(敬称略)

【写真】野口遵が創業して以来、旭化成は85年の時を刻む。その歴史は事業の多角化に彩られてきた


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