したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

化学・薬品産業総合スレッド

1792荷主研究者:2017/01/03(火) 22:36:20

http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2016/12/26-27601.html
2016年12月26日 化学工業日報
【激動の化学産業】 リーダーの証言/日産化学工業 藤本修一郎 前社長 《上》

 運命を分かつ岐路に立ち向かい、新たな指針を示して企業を蘇らせたリーダーがいる。日産化学の第21代社長・藤本修一郎(のぶいちろう)氏その人だ(2000年6月社長就任)。同社は1980年代に主力事業だった石油化学部門から撤退する。以後、農薬、電子材料、医薬といった高付加価値分野に経営資源を集中させ、高収益企業として蘇っていく。その戦略は、日本の化学企業の成功モデルとして語り草となっている。石化撤退後、日産化学の進む道を示したのは、当時まだ役員にもなっていなかった藤本修一郎氏だった。藤本氏は振り返る。「そのとき私は経営企画部門に在籍していた。当時の徳島秀一副社長(のち社長、会長)から、石化撤退後の日産化学を方向付けする中期経営計画の策定を命じられた」。経営陣は、次代のホープに会社の将来像を描かせた。そして、藤本氏が打ち立てたのは『価値創造型企業』という新たな御旗だった。それはやがて、高収益企業・日産化学の個性として深く定着していくことになる。

一宿一飯の恩義

 間もなく創業130年を迎える日産化学は、タカジアスターゼやアドレナリンで名高い世界的化学者の高峰譲吉や、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一ら、錚々たる先覚者により設立された東京人造肥料を源流とする。肥料事業を起点に脈々と続く歴史のなかで培われたのは、大手化学企業も舌を巻く卓越した技術力・開発力だった。しかしそれは、苦難に満ちた歴史でもあった。肥料事業の衰退、石化産業への進出の遅れなどを背景に、幾度もの危機に直面した。1962年(昭和37年)、藤本氏が九州大学法学部を卒業し日産化学に入社した時期も、業績不振で無配を余儀なくされるという厳しい時代だった。

 入社の経緯について藤本氏は「一宿一飯の恩義」と笑う。「日産化学の説明会に顔を出したら人事担当者に博多の中州でご馳走になった。その後、東京で面接したときに、母親一人で育った割にはずいぶん明るいし、お母さんは立派な人ですねと言ってくれた。それで、コロッといっちゃった。当時からそんな雰囲気の良い会社でした」。

 入社すると王子工場に10カ月間勤めた後、本社に配属された。「その後50年間本社だった。転勤も無かった。人事労働が10年。次に経営計画が10年。それから常務時代も含め営業を25年程担当した」。

青年将校、組合と向き合う

 10年間を過ごすこととなった人事労働時代は、活発な活動を続けていた労働組合と対峙した。肥料事業の衰退を背景に、希望退職や工場閉鎖などを進めた会社と労組が対立していた。「あの頃、大手化学企業は労働争議からすでに卒業していた。しかし、当社はまだ本社や工場でストライキが繰り返された」。

 閉鎖を決めた長岡工場は1973年までに全製品の生産停止に追い込まれた。会社は400名の希望退職を実施した。「その時私は、これをやらないと日産化学はないんだと、正義感に燃えた青年将校のような気持ちで随分張り切っていた」。工場の閉鎖作業が終了すると長岡工場の総務部長から便箋10数枚にわたる手紙が届いた。「工場を閉めるときの現場の苦労が入念に書いてあった。あなたがこれから日産化学で偉くなっていくうえで、心に留めておいて欲しいと。私は自分を恥じ、二度と人に手を付けてはいけないと誓った」。

 その後、日産化学は労組との関係を一から構築し直していくことになる。「できないことは約束しない。約束したことは守る。そうした信頼関係の構築が必要と感じていた。そのあたりに一番尽力されたのが、私の前の社長の柏木(史朗)さんだった」。労組に対し、会社の経営状況を繰り返し丁寧に説明する機会を設けた。職場の小集団活動であるAi運動においても、毎年各工場から優秀な若手社員を本社に招き、全役員の前で改善運動の成果を発表する取り組みにも力を入れた。「歴代社長の新年挨拶には、必ず正月三が日に勤務してくれた方々へのねぎらいの言葉を忘れなかった」。従業員を大切にする文化を醸成していった。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板