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化学・薬品産業総合スレッド

1751荷主研究者:2016/11/12(土) 18:48:32
>>1750-1751 続き

感性を信じて

 「感性の経営者」を自認する小川氏は、ときには周囲の反対を覆し、自らの感覚を信じて重要な決断を下したという。「例えばM&Aでも、赤字だから買わないとか数字だけ見て判断していたらダメ。自社の将来に必要かどうかが重要だ」。その決断も、即決を旨とした。「グズグズ言って、考えているのが一番まずい」。

 大竹工場では、04年から07年にかけて、埋め立てなどにより隣接する敷地を取得し、ここに07年にアセテート・トウ設備を、08年にはTAC設備を完成させた。アセテート・トウはそれまで網干と堺の2拠点で生産していた。このうち堺工場は、高速道路の建設にともなう用地収用計画が持ち上がり、設備を移転する必要があった。阪神淡路大震災などから高速道路計画は一時中断したが、00年代になって再び持ち上がる。「公団との契約が終わり、堺工場をクローズしたのが07年だった」。

 巨費を投じた大竹でのアセテート・トウ新設。「社内では大竹立地に反対する者が多かった。網干でやるべきだと」。小川氏は、主力製品の生産が網干に一極集中し過ぎることは危険だと考えていた。「もし、堺工場の閉鎖がもう少し早かったら、大竹工場への移転は実現していなかった」という。「だから堺の閉鎖の遅れはタイムリーだった。僕はツイている」。

 酢酸の海外プロジェクトは、小川氏が頑として首を縦に振らなかった。「海外に作って、売れなかったら日本に持ってくることになる。そのとき網干工場の稼働率はどうなるか考えろ」。会長時代の11年における新井工場のソルビン酸設備の停止と中国子会社への生産集中でも「一旦は中国停止に決まりかけたが、東日本大震災に伴う新井の風評被害や、中国での工場閉鎖の難しさ、コスト競争力から再検討し、中国を残すことに決めた。苦労もあったが、中国を残したことで収益に貢献してくれた」。

ポリプラスチックス

 1962年に米セラニーズと合弁で設立したポリプラスチックス(ポリプラ、ダイセル55%出資)。ポリアセタール樹脂「ジュラコン」の製造販売を目的に設立された同社は、「高度経済成長の波に乗るかたちで成長した」。その後、PBT、PPS、液晶ポリマー(LCP)、シクロオレフィンコポリマー(COC)をラインアップに加え、エンジニアリングプラスチックの世界的な大手企業に成長している。

 ただ、同社の製造販売は日本およびアジア地域に限定されていた。グローバル時代となり、自動車などの需要家ニーズに対応するためには、ポリプラも世界での販売権が必要だった。一方、セラニーズは成長するアジア市場への進出を図るなど、両者の思惑は食い違っていた。「僕の本心としては、合弁事業なのだから合弁会社が儲かる仕組みにしてリターンを分かち合いたかった」。長年にわたる粘り強い交渉の結果、12年3月、米セラニーズとの間でポリプラのグローバル展開における包括的契約に合意。LCPを除く樹脂を全世界で販売する体制を整えた。

 ◇

 10年6月、小川氏は9期連続の増益達成など、破格の成果を置き土産に当時54歳の札場操執行役員を後継社長に指名し、会長に就任した。翌11年には社名をダイセル化学工業からダイセルに変更。「化学を主体にしているが、化学だけじゃないということ」と、今後のダイセルの方向性を示唆する。「9期連続で途切れた理由は、巨額の投資により償却負担が膨らんだからで、分かっていたこと。記録より会社の成長が大事だ」。相談役の現在、現場に顔を出すことはほとんどないという。「本当は若い人と話をしたいんだけどね。楽しいから」。やはり自然体で語る小川氏の言葉は、聞き手に素直に届いてくる。


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