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化学・薬品産業総合スレッド
1602
:
荷主研究者
:2015/12/26(土) 21:17:52
>>1601-1602
続き
★30万トン時代―鹿島計画★
10年にわたる四日市での拡大投資を経験した三浦氏を待っていたのは、鹿島コンビナート計画だった。三菱油化は、四日市の敷地がいずれ限界を迎えることを見越し、60年代前半から第2立地での建設構想に入っていた。最終的に候補地に浮上したのが鹿島だった。
当時の岩上茨城県知事の農工両全の開発方針に基づき、インフラの構築から関与する鹿島計画は、三菱油化が第2の創業期と位置付ける大プロジェクトとなった。当初、エチレン年産10万トンとしていた計画を同20万トンに上方修正したが、さらに通産省(現経済産業省)の指導により同30万トンに拡大修正された。「エチレン30万トン時代」の幕開けだった。三浦氏は東京本社に設置された鹿島開発本部に異動し「コンビナート全体のレイアウトやインフラの整備を立案した」。
石油精製拠点も大型港もない地区に18社が進出する鹿島計画は、石油精製会社(鹿島石油)の設立や、世界最深の水深を持つ掘り込み式の人工港の建設などをともなう一大プロジェクトとなった。一方で、共同火力発電所などの共同ユーティリティーセンターの設立や、コンビナート全体の最適配置と計画的なパイプライン網の整備のほか、安全対策、公害対策などを含め、それまで日本では例をみない効率的なコンビナートを追求した。
効率化の鍵を握るのが、初期のレイアウト作りだった。「原料のタンクヤードから川下誘導品に至るパイプライン網や、参加企業全体のレイアウトを決めていった。パイプライン設置では、参加企業全体が一定の比率で用地を出し合い、共通の配管用地を確保した」。
正式決定から7年後となる71年、鹿島コンビナートは前年からの試運転を経て本格操業を開始した。しかしこの年、石油化学産業はそれまで経験したことのない困難に直面した。高度経済成長が終焉したのだ。
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