したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

化学・薬品産業総合スレッド

1601荷主研究者:2015/12/26(土) 21:17:16

http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2015/11/26-22654.html
2015年11月26日 化学工業日報
【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 三菱化学 三浦昭特別顧問 《上》

★鹿島1号機の停止★

 2014年5月、三菱化学・鹿島事業所の1号機エチレン設備は稼働停止し、1970年から続いたその歴史に幕を下ろした。鹿島セントラルホテルで開催された「お別れの会合」に出席した三浦昭特別顧問は、立ち上げ当時の苦労を想い起こしていた。「建設中は緊張の日々。とくに原料投入後の試運転の時期は、交代で夜勤の工場長の役割も務めた」。あれから45年。「時代の流れだね」と語る三浦氏の口調に感傷の響きはない。石油化学の発展に貢献した過去。しかし、時は流れ世界は変わった。そして化学産業には新たな、そして大きな使命が待っているからだ。

★池田亀三郎の誘い★

 「君、今度こういう会社(三菱油化)を創る。同じ三菱グループだし、こっちに移らないか」。三菱石油(現JXホールディングス)に入社して程ない三浦氏に声をかけたのは、三菱油化の初代社長、池田亀三郎氏だった。「池田さんは山形県酒田市の出身。私はその近くの庄内町の出身。就職が決まったとき、東京原宿のご自宅に挨拶にいった」という。故郷の大先輩の誘いは断れない。だが、入社したばかりの会社にも迷惑はかけられない。思いが交錯した。

 三菱グループは1956年、石油化学への事業進出にあたり三菱化成工業、三菱レイヨン、旭硝子、三菱商事、三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)、三菱銀行(現三菱東京UFJ)などが出資し、三菱油化を設立する。旧三菱化成工業の初代社長も歴任した池田氏は、終戦を機に一線から退き、日本化学工業協会の副会長の職にあった。その池田氏が、新生三菱油化の社長として現場復帰することになった。

 池田氏は悩む三浦氏を「僕が話しをつけてやる」と説得した。三浦氏は、学生時代から石油化学に興味があり、「大学では石油化学の分野で著名であった徳久教授の研究室で修士論文の指導を受けた」。三菱石油では川崎製油所に配属され、「現場が肌にあう。プラントを建設してみたい」とも考えていた。運命が動いた。

 「入社してみると、発足したばかりの三菱油化の本社には30人しかいなかった」。しかし三浦氏はこの後、石化産業の急成長を目の当たりにすることになる。

★国産化―四日市計画★

 日本の石化産業は、1958年4月の三井石油化学工業・岩国および住友化学工業・新居浜、59年5月の三菱油化・四日市および日本石油化学(現JXエネルギー)・川崎の先発4社(第1期計画)のエチレン操業開始が本格化の号砲だった。四日市計画は、年産2万2000トンのエチレンと、誘導品のポリエチレン、スチレンモノマーを中核とコンビナートだった。

 「この時期、何をしていたかといえば導入技術の選定だった」。日本は、製造プロセスを海外からの導入技術に頼っていた。エチレンの技術は、条件が有利な米ストーン&ウェブスター(S&W)社を選択した。「米ケロッグ社やルーマス社もあったが、他の先発3社もS&W社だった」。

 導入技術が決まると、イギリスのシェルに石油化学プラントの運転実習に派遣された。先行する2社を追いかける突貫工事も大変だったが、設備完成後も苦労した。「エチレンとダウンストリーム(川下誘導品)が順調に一斉に立ち上がらないと困る。エチレンは高圧容器に保管する必要があり、建設費がかかるのでストレージを多くは持てない。貴重な経験になった」。

 試運転にあたっては、三菱化成からベテラン運転員が応援に駆け付ける一方で「新卒や別業種の経験者もオペレーターに採用し、危険物や高圧ガスの扱いなどを訓練した」。エチレンの第1期設備は、59年5月に念願の商業運転入りを果たした。その直後に伊勢湾台風が四日市を襲う不幸に見舞われるが、工場は短期間で再開することができた。

 その後、四日市では増設に次ぐ増設が実施された。高度経済成長が始まり、石化製品は作れば売れる売り手市場だった。「62年完成の第2期でエチレン年産6万トン。65年完成の第3期でエチレン年産?万トンを建設した。さらに68年には年産20万トンの第4期エチレンが完成した。すごいスピードだった」。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板