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化学・薬品産業総合スレッド
1577
:
荷主研究者
:2015/12/12(土) 23:18:23
http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2015/11/19-22583.html
2015年11月19日 化学工業日報
【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 昭和電工 大橋光夫最高顧問 《下》
▼スピード違反
2000年にスタートしたチータ・プロジェクトは「飛躍のための戦略的縮小」と銘打った実質的なリストラ計画だ。危機から脱出するにはスピードが重要で、そのためには全社員が危機感を共有する必要があった。「危機の事実を私は隠さなかった。社長が本当の意味での危機感を出さずに、隠ぺいしているように見えたら『もたない』と思った。だから全部話した」。危機感だけが財産だと訴えた。「それで会社を去った人もいたが、社長がそこまで話すなら付いていこうという人達がいて、今がある」。
当初、3年間で2500人としていた人員削減は、最終年の02年には5000人規模に達した。役員はもちろん、管理職から組合員に至るまでの給与カットも実施した。事業構造改革では、昭和アルミニウムの合併やエチレンの1号機設備の廃棄と2号機設備への統合のほか、事業ポートフォリオ管理により、コア事業から外れた関連会社や事業を次々と売却した。「アナリストには『ここまでやって大丈夫? これ以上やったらスピード違反で捕まっちゃうよ』と言われた。そのくらいのスピードで実行した」。
▼チータを予定通り完遂
チータ・プロジェクトの3年計画の2年が終了した時点で、財務体質や収益改善の成果が見え始め、無機・アルミと有機化学の技術を併せ持つ「個性派化学」の事業構造も明確化してきた。最終年がスタートした02年1月、大橋社長は年頭の訓示で「私の改革への思いは、昭和電工グループの末端まで伝わっていると強く感じている。しかし改革に終わりはない。社員一人ひとりが変化を求めて自己改革していくことを強く求める」と述べた。
周囲も驚くスピードで改革を実現させた大橋社長。歯を食いしばりながらの3年を経て、02年末に昭和電工はチータ・プロジェクトを完遂させた。「少なくとも、昭和電工が存亡の危機から脱出したと市場は理解してくれた」。改革が成功したのは、改革の先頭に立つリーダーの下、全社で危機感を共有したからだ。「苦難をともにし最後まで勤めてくれた人達に対する思いは強い。今でも皆の顔が浮かぶ」。
▼HD事業の転機
チータ・プロジェクトを推進中の02年10月、昭和電工は「三菱化学グループからハードディスク(HD)事業を買収する」と発表した。HD事業は現在、昭和電工のコア中のコア事業だが、この事業買収が飛躍への転機となった。
「三菱化学は、当時の当社との信頼関係のなかで、シンガポールのHD事業を昭和電工に任せようと決断してくれた。これが非常に大きな財産になった。人材も一緒に来てくれた。自分たちは会社の名前の下ではなく、HD事業で生きるんだと。そういうスピリットを持った人達だった」。
HD事業は、アルミなどの基盤技術や、表面処理・成膜技術など、技術のバック・グラウンドこそあれ「従来の当社の企業文化とは全く異質な事業」だった。「昼夜を問わず、真夜中でも顧客の要求に対応するような事業だ。技術開発も、他社に1日でも遅れたらそれで終わり。HDは、そういう厳しい環境で働く覚悟があって初めて生き残れる事業だ」。かつて大橋氏が嘆いた昭和電工の文化。HDの事業文化がその改革に大きな役割を担った。
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