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化学・薬品産業総合スレッド

1576荷主研究者:2015/12/12(土) 23:17:27
>>1575 続き

▼危機のなかで社長就任

 1980年代の終わりから90年代にかけて、大橋氏の前任だった村田一社長時代に昭和電工を最大の危機が襲った。同社が製造した必須アミノ酸のLトリプトファンを含む健康食品による健康被害が米国で発覚したのだ。健康被害と昭和電工の製造したLトリプトファンとの因果関係は、現在も証明されていない。しかし製造物責任(PL)法への対応や訴訟費用などにより、結果的に昭和電工は90年代に2000億円を超える資金を費やさざるを得なかった。

 村田社長は、PL問題の処理に一応のめどを付けた97年、後任社長として大橋氏を指名した。最有力候補の順当な社長就任に見えたが「私自身、自分が社長になるかどうかを考える余裕すらなかった」という。その一方で「私がもし何時か昭和電工の社長になるとしたら、一番ふさわしい時期に村田さんが任せてくれた。業績が好調な時であったなら、私のやりたいことが社内で理解されなかったと思う」と述懐する。つまりピンチは最大のチャンスなのだ。

 PL問題の処理により、昭和電工の資産は大きく毀損していた。「危機感以外に財産が無くなったと言ったが、それは何も大げさに言ったのではない。先輩たちが築いた財産を、キャッシュだけでなく資産も含めて全て売却してしまった。本当のスッテンテンだった」。昭和電工は破たんするかも知れない、との噂が飛び交った。

▼チータ・プロジェクト

 社長に就任した当初、大橋氏は結果を出せずに苦しんだ。「最初の2年間くらいは成果が全く出なかった」。しかし会長の村田氏は静かに見守った。「(村田社長とは)随分違うこともやったし、結果が出なかった最初の2年は、雑音が社内外にあったはず。それでも一言も何も言わず、全てを任せてくれたことに今でも感謝している」。

 1998年から、大橋氏は昭和電工の再生計画となる中期経営計画の策定作業に入った。そして「総合化学から個性派化学へ」をスローガンとする中期経営計画「チータ・プロジェクト」を2000年にスタートさせた。関係会社の統合、事業売却、人員削減、エチレン設備の一部廃棄、有利子負債削減...。これらの改善策を動物のチータのような素早さを持って3年間で仕上げるという計画だった。

(つづく)


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