[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
化学・薬品産業総合スレッド
1571
:
荷主研究者
:2015/12/12(土) 22:59:24
http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2015/11/12-22500.html
2015年11月12日 化学工業日報
【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / 三井化学 田中稔一相談役 《上》
▼緊急事態で社長就任
田中稔一相談役(前社長)が三井化学の社長に就任したのは2009年6月だった。それまで副社長を4年務め、64歳になっていた。前任の藤吉建二社長との年齢差はわずか1歳。第2の人生を模索していた時期でもあり、辞退を考えた。しかし同社は「リーマンショックの影響をモロに受け、業績が悪化していた」。09年3月期は営業損益で455億円、最終損益で952億円の大幅な赤字を計上した。化学企業としては過去最大の赤字額だ。続く10年3月期も赤字決算が見込まれた。緊急事態のなかで再建を託されたのだ。「(会長の)中西(宏幸)さんと(社長の)藤吉さんから、次をやれと。難色を示したら、藤吉さんが『日頃、部下に対し、悩んだときや壁にぶち当たったときは自分にとって厳しい方の道を選べ、と言っているじゃないか。あれはなんだったのか』と」。それで受けることとした。
「一発で日本全体がぶん殴られた」というリーマン・ショック。化学企業としてその激震の影響を最も受けたのは、石油化学事業の比率が高い三井化学だった。さらにリーマン・ショックによる経済低迷を回避するため、中国が石油化学、基礎化学品分野で未曽有の新増設ラッシュに入ったことが追い打ちをかけた。自分を奮い立たせ、社長を受けた田中氏は、三井化学の再建のために「石化、基礎化の再構築、付加価値分野へと経営資源をシフトする」ことを決断、成長分野での投資を断行していく。
▼化学のルーツは三池炭鉱の石炭
田中氏は、サラリーマン人生で2度の大型合併を経験した。最初の合併は、入社したその年の1968年(昭和43年)10月だった。「4月に東洋高圧工業に入社し、辞令を受けたと思ったら、その10月に(三井化学工業と合併してできた)三井東圧化学として辞令を受けた。滅多にない経験だ」と振り返る。
田中氏の地元・福岡は、三井グループにおける化学事業の発祥の地だ。「三井の化学事業のルーツは、福岡県大牟田市を中心とする三池炭鉱(三井鉱山)にある」。三池炭鉱は、明治政府の官営事業だったが、石炭の輸送・販売は1876年設立の三井物産が一手に引き受けていた。そして三池炭鉱は1889年(明治22年)に三井財閥に払い下げられた。
三井鉱山は、三井財閥の成長の原動力だった。「団琢磨などが活躍していた当時、主要エネルギー源であり鉄の原料でもある石炭は、国家の重要産業だった。鉱山開発に賭ける先人達のエネルギーには並々ならぬものがあった」。石炭の輸送の要として閘門式(こうもんしき)の巨大三池港などに惜しみなく「今では考えられないくらい」巨額を投じた。
やがて鉱山運営の高度化を図るため、化学事業へ進出することになる。「石炭からコークスを製造する際にタールが複製する。ここから、硫安などの肥料原料や染料のアリザリンなどを生産する、いわゆる石炭化学に進出した」。肥料系の事業は東洋高圧へ、染料系の事業は旧三井化学工業に引き継がれていく。
石炭化学が生み出す肥料、染料などの化学品事業はその後、大きく発展した。「1910年代には第一次大戦を背景に染料需要が拡大した。また戦後の食糧難のなか、いわゆる三白景気で肥料需要が急増した」。衣食住のすべてが不足していた戦後から復興期にかけて、化学事業は重要な産業となっていた。このうち、田中氏の出身母体の東洋高圧は「世界に冠たる尿素(肥料原料)の大量生産技術を保有しており、時代の要請に応えた」。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板