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自公保観察スレ

1912とはずがたり(2/2):2005/08/19(金) 15:57:12
>>1911-1912
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 ◇「骨肉の争いしたくない」、不出馬までの経緯語る−−会見で村井氏
 記者会見での主な質疑は次の通り。
 ――最終的にいつ出馬断念を決めたのか。
 今日の(会見前の)拡大幹部会で相談して決めた。
 ――いつごろから(不出馬を)考えていたのか。
 15日に靖国神社にお参りし、全国戦没者追悼式に出席し、仲間の議員とも会った。「こういう環境の中でどうしたらいいか」「こういう形をとらしていただくのが自民党にも支援者にも一番いいのではないか」と、だんだん考えるようになった。
 ――郵政法案について改めて自分自身の主義主張を掲げて出馬することは考えなかったのか。
 自民党の候補同士が争うのはいやだし、避けたいと思っていた。骨肉の争いはしたくない。
 ――綿貫元衆院議長らによる新党に加わる意思はなかったのか。
 今回の郵政民営化法案に反対するほかに自民党への不満はない。ちょっと異常な状態になってるだけ。ほかに重要なことがたくさんある。自民党を出て行く必要はない。だが、無所属で出ても自民党議員として活動できない。別の党で出ることは全然考えなかった。
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 ■解説
 ◇当選を困難視か
 「(無所属でも)勝つ自信はあった」。村井氏は「不出馬決定に、選挙戦が厳しいとの思惑がはたらいたからか」という記者の問いに対し、胸を張ってこう答えた。しかし自民党に公認されず、比例という“セーフティーネット”がなくなった今回。村井氏の支援者でさえ、多くが当選は難しいと見ていた。
 「もし出ていれば、今回が“村井仁”として戦う、初めての選挙だった」。村井氏に近しい支援者はこう話す。86年に初出馬し当選。93年は自民党を離れ新生党にくら替えしたが、新党ブームに乗り圧勝した。97年、新進党が分裂して勢力が衰えると、自民党に復党し、00年は当時、新人として出た下条みつ氏に約1万3000票差に迫られるも組織票で当選。しかし後援会の高齢化や支持団体の集票力の低下にはかなわず、03年は逆に1万票差をつけられ敗北し、比例で救われた。
 県連をはじめ、多くの支持団体はこれまでのつながりから村井氏への支援を非公式に打ち出していた。しかし支援者の中には新生・新進党へ移った当時の経験から「もう(自民を離れる)苦しい思いはしたくない」との声も多く、積極的な支援を尻込みする人も多かった。自民党と連立する公明党や、その支持団体の「創価学会」が今回、「造反組」への支援に難色を示したことも苦境に拍車をかけた。
 後援会終了後、萩原清・県議会議長はこう漏らした。「勝つには、村井さんは自分をさらけ出す“泣き”の選挙をやらなきゃいけなかった。でも村井さんの性格上、できなかったんだろうな」[反橋希美]
8月18日朝刊
(毎日新聞) - 8月18日16時46分更新


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