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繊維スレッド
190
:
荷主研究者
:2009/10/31(土) 18:51:21
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=13722&catid=303
2008年11月13日付 宮崎日日新聞
選択と集中 3…レーヨン撤収
■存在価値見いだせず
操業以来、約70年の歴史を刻んでいた延岡市中川原町の旭化成レーヨン工場で最後の工場長を務めた松居龍(57)=現・旭化成せんい専務=はあの日を忘れていない。2000年10月24日に会社がレーヨンからの全面撤収を発表した日だ。
工場の一角に3交代別に従業員を集めて松居が撤収を説明し始めると、係長の1人が泣きだした。管理部門を除いてほとんどは延岡生まれでレーヨン一筋。中には親子二代続けてという者もいた。松居は「とうとうきたかという感じだった」と記憶する。
松居がレーヨンに赴任したのは1981年5月。創業者の野口遵が「世界一安い糸を大量につくる」と標ぼうして1933(昭和8)年に建設した間口100メートル、奥行き300メートルの巨大な工場3棟がフル稼働していた。
しかし、85年にはレーヨン生産を始めた中国への輸出がゼロになり、生産量は2万5千トンから3千トン減産。その後のバブル経済で旺盛な国内需要とともに婦人服の高級裏地として飛ぶように売れたが、ソ連崩壊(91年)による主要輸出先の消滅、バブル崩壊(93年)などに翻弄(ほんろう)され、1万7千トンにまで落ち込んだ。
操業時には30社近くあった国内のライバル会社も次々と撤収。繊維メーカーのクラレが2000年5月に撤収した後は、国内ではただ旭化成のみがレーヨンを生産している状況だった。
□ ■
他社が相次いで事業撤退した後も生き残り、市場を独占的に獲得する「残存者利益」に旭化成はかつて徹底的にこだわった。1931年から延岡市の恒富地区で製造し、今では世界市場をほぼ独占している再生繊維ベンベルグがその代表例だ。
レーヨンもまた「残存者利益」に生き残りを懸けたのだったが、バブル後の国内不況で、より安価な合成繊維と高級繊維の板挟みに遭って存在価値を見いだせないまま終焉(しゅうえん)の時を迎えた。
それから8年。レーヨン跡地は延岡岡富地区工場群となり、グローバル市場で戦う最先端製品を生み出す生産基地として生まれ変わった。人工腎臓の紡糸・組立一貫工場、液晶パネル製造過程部品工場は、岡富の変容を象徴する。
その過程は、松居とともに残務処理に従事した管理室長・山形憲二郎(55)=現・旭化成情報システム部長=らレーヨン最後の生え抜きが当たったのだった。その後、残された広大な遊休地が劇的な変化を遂げるとは当時の従業員や市民の誰もが予測することはなかった。(敬称略)
【写真】レーヨン工場は延岡で約70年操業を続けた。跡地の岡富地区工場正門前には記念碑が立つ
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