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応用栄養学特論

725小説吉田学校読者:2008/01/19(土) 09:45:45
私もガラス容器入りのキットカットの容器をペン立て、灰皿に再利用しております。
ただ、モロゾフの場合、耐熱性じゃないので(http://www.morozoff.co.jp/quality/pudding04.html)注意は必要。

勝手に関西世界遺産 登録番号151 モロゾフのプリンカップ
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/kansaiisan/OSK200801170042.html

 関西人の家庭には、たこ焼き器と同じくらいの比率で存在するものがある。モロゾフのプリンのカップだ。プリンを買うと陶器のカップまでついてきた。最初に、モロゾフのプリンを買ったときは、ものすごーく得をした気分になったものだ。カップ欲しさにプリンを買うというほどで、プリンを食べたあとも、カップは大切に使っていた。ところが、世の中が贅沢(ぜいたく)になっていくにつれ、そのお得感は薄らぎ、カップの扱い方も粗雑になっていった。ガラスになったカップをうがい用とかに。そして、ついには食器棚の片隅にしまっておくようになった。だが、捨てられない。という人は私だけではないだろう。そんなモロゾフのプリンのカップが復権したときがあった。阪神・淡路大震災が起こった、あの年だ。
 今もあの時期が来ると涙がこぼれるが、関西人は関西人ならではの乗り切り方をしたのではないかと思う。その一人が、落語家の桂あやめさんである。生まれ育った神戸市兵庫区の実家がペシャンコになり、お母さんが圧死されていた。なのに、彼女は震災後1週間もしないで高座に上がり、開口一番「被災者Aの桂あやめです」とやって、会場を沸かせた。噺(はなし)の前の枕で、地震のおかげで世の中の価値観がガラリと変わったと、次々例を出して笑いをとっていく姿は、どこか鬼気迫るものがあった。たとえば、男の選び方。「お金持ってるとかベンツ乗ってるとか、何の役にもたちません。何本ペットボトルやガスボンベ入ったリュックを担いで神戸まで行けるか。これが大事になります」
 究極の悲しみのなかであやめさんは地震報道に目を通し、ネタを集めていたのだ。その象徴ともいえるエピソードが、これだった。「高級な食器はぜーんぶ壊れ、残ったのがモロゾフのプリンのカップだけです。丈夫が一番!」
 確かに、確かに。いったい何人の人が「食器棚にはモロゾフのプリンのカップしか残っていない」と泣いていたか。ある人は「高いもの順に壊れていったみたい」。また、ある人は「残ってほしくないものだけが残った」。別の人は「肝心なときに役に立ったのが、伊万里やジノリではなく、モロゾフのプリンのカップとは……」。
 あれから13年がたつ。モロゾフのプリンのカップを見ると、あのときのあやめさんを思いだす。どちらも、どんな苦難も笑い飛ばして生きていこうという関西人のたくましさそのものではないか。
(文・島崎今日子<ライター> 写真・酒井羊一)
○ぽってり健在 4代目
 あるときは花を植えるミニプランター、あるときはメダカを飼うミニ水槽、あるときはペン差しに。朝日放送の「探偵!ナイトスクープ」でも96年「大阪人の節約根性」の証しとして紹介された。
 神戸市東灘区のモロゾフ本社を訪ねると、歴代の容器が顔をそろえて待っていた――。初代はぶ厚い白い陶器。62年、銀座の直営喫茶店に初登場したときのものだ。この大きなプリンが人気をよび、68年店頭で売り始めたとき、2代目の薄手の陶器に。73年、3代目でガラスになる。
 ガラスは量産するのに都合よく、生地に熱がじんわり伝わるのだという。「なめらかな食感になります」と製品開発の大門弘典さん(42)。ぶつかっても欠けにくいよう形も工夫された。上部が厚く、縁が丸みをおびていた。
 いま店に並ぶのは4代目。98年、先代の188グラムから2割ほどダイエットして149.5グラムに。形も少し変わったが、みんな気づいていた。「水を飲んだら、口にあたる感じが違うもん」と。95年には半量の小サイズも登場。いまはこちらの売り上げ数が多い。
 阪神大震災では神戸市内の製造工場が5週間動かず、百貨店のショーケースに並ばない日もあった。「早くプリンを」というお客の声が胸にしみたと従業員は振り返る。ぽってりした器がほっとする味を守っている。


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