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応用栄養学特論

397小説吉田学校読者:2006/05/06(土) 10:46:03
>>396
むかしから気になってたんですけど、ラムのコーラ割りのこと「ラムコーク」とも言いますよね。ペプシならキューバリバーでコカコーラならラムコークなのかと・・

この話いいなあ。池波正太郎の「むかしの味」の中の「どんどん焼き」の話を思い出した。

「お好み焼き」 尾藤イサオさん  1人前15円 兄と分け
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/food/shinagaki/20060501gr09.htm?from=os1

 「お前、取りすぎだよ」「おい、まだ生じゃねーか」ジュージューと音を立てる鉄板を仲間と囲む。
 仕事で全国を回ると、夕食はお好み焼きが多い。気取らずに食べられるところが魅力だという。だが、豚肉に加えて海の幸も入っている“豪華”なものだと、「もっと素朴な方がいいな」と感じてしまう。
 戦時中、東京・御徒町で生まれた。5人きょうだいの末っ子。小学校に入ると、2人の兄と銭湯帰りに食べられる月に1度の「ごちそう」があった。それがお好み焼き。長屋の一室にテーブルを4台置いただけの店。水で溶いた小麦粉に、桜エビやキャベツなどが入って1人前15円だった。ウスターソースをたっぷりとかけて、1人前を3人で分けた。
 「大きいのは兄貴が食べちゃうんだよね。でも、おいしかった。家ではネズミ色のすいとんばかり食べていたから」
 父親は都内の寄席で「百面相」という芸を見せていたが、3歳のときに亡くなった。三味線奏者だった母親や菓子店でアルバイトをしていた姉たちが家計を支えていた。お好み焼き代は姉が工面してくれたらしい。
 母親も10歳のときに亡くなった。子ども心に家計を心配し、父親の知人の曲芸師に弟子入りを志願した。ナイフ投げや皿回しなどの芸を身に着け、中学生時代から駐留軍キャンプ回りをした。
 16歳で渡米し、約40人の曲芸団の一員としてクラブ回りをしながら、10か月間、本場の歌や踊りを見た。あるとき、円盤状の食べ物を指先でくるくると回している人を店のガラス越しに見た。
 「あっ、お好み焼き!」
 すぐに買って食べてみた。とろりとしたチーズがあふれんばかり。初めて食べたピザだった。「アメリカは違う!」と感激した。
 娯楽の世界にもしびれた。歌って踊れるサミー・デービス・ジュニアのステージを見て「歌手になろう」と決めた。
 帰国後、都内のジャズ喫茶などで歌い、1962年、19歳で歌手デビュー。マイクをわしづかみにして身をよじりながら歌う姿から「和製プレスリー」と呼ばれた。その後、映像や舞台に活動の場を広げた。
 40歳代になり、2人の娘が小学生になったころ、お好み焼きが無性に食べたくなった。ある時、台所から鉄板を取り出し、溶いた小麦粉にソースをかけただけのお好み焼きを、娘たちの前で作って見せた。「これがパパの料理だよ」。娘と同じ年のころ食べた“原点の味”を、家族と共有したかったのかもしれない。
 「でも、その時は、妻が隣でサイコロステーキを焼いたものだから、お好み焼きは食べてもらえなかったんですよ。タイミングが悪かったなあ」
 近く出演する舞台では、出演者中最年長。お好み焼き屋に若手を連れ、チームワークを確認しようと思っている。「でも、おれが一番食べちゃうかもね」(岡安大地)


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