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応用栄養学特論

183とはずがたり:2003/11/02(日) 13:41
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/news_death.html?d=01fuji30193&cat=7&typ=t
カルビー会長91歳で死去、その「えびせん人生」 (夕刊フジ)

 「やめられない、とまらない、か〜っぱえびせん」-。誰もが知っている大ヒット菓子『かっぱえびせん』の生みの親で、カルビー名誉会長の松尾孝氏が先月28日、直腸かいようのため、91歳で死去した。家業の米ぬか工場を継いで以来、70年余り。旺盛な研究心で、スナック菓子市場を開拓し、リードしてきた。関係者が「CMの通り生涯お菓子作りに疾走した人」と話す、松尾氏の“えびせん人生”とは…。

 【カルビーの由来】

 明治45年、広島で生まれた松尾氏は旧制広島一中を卒業した昭和6年に家業の工場を多額の借金とともに引き継ぎ、工業用の米ぬかなどの製造・販売を始めた。

 本人の回顧によれば、松尾氏の“やめられない、とまらない企業人生”は、その数年後、青年団主催の「練成会」で、こんな言葉と出会ったことで始まった。

 「あなたたち若者は過去から未来を結ぶ鎖となり、人生をかけて何か一つでいいから、後世に残しうる仕事を成し遂げなさい。一人一研究だ」

 食糧事情が悪かった当時、松尾氏は栄養学の本を読み、胚芽にビタミンBが豊富で、カルシウムも健康に良いことを知り、健康食品を作るための研究をスタート。

 松尾氏は「社名『カルビー』は、カルシウムの『カル』とビタミンBの『ビー』から。この時の思い入れがきっかけ」と振り返っている。

 【えびせん誕生秘話】

 日中戦争、第2次世界大戦で食糧事情がさらに悪化した頃には、研究の成果で、デンプンや野草を使った代用食を製造し、行列のできる店となったが、原爆で工場や倉庫を焼失。戦後、アメやキャラメルを製造し、立ち直っていった。

 「かっぱえびせん」は、昭和28年に不渡りを出し、倒産の危機を迎えたことが開発の契機になった。米がまだ配給制だった時代、「米ではなく、安価な小麦粉であられが作れないか」と思い立ち、30年から発売された「かっぱあられ」シリーズが完成。「幼少の頃、私は『エビ獲り名人』といわれていた。そのエビを母が丸ごと素揚げてくれた天ぷらが大好物でした」という松尾氏が研究を重ね、シリーズ最終作品「かっぱえびせん」がブレークした。

 【かっぱ命名の『へぇ〜』】

 「かっぱ」はナゾのネーミングだが、社運をかけた松尾氏が当時、風刺マンガ『かっぱ天国』で一世を風靡していた清水崑氏にシンボルマークの作成を依頼、実現したためという。

 「ヒットにつながったのは、お菓子は甘いものだという当時の常識を打ち破った点だろう。独創的な発想で日本では初めてスナック菓子を開発した」と話すのは、松尾氏の二男で、同社相談役の松尾康二氏(66)。

 「父は知的好奇心が旺盛で勉強熱心。その上、人マネが大嫌いなひらめき人間だった」といい、「経営者としては現場に強く、隅から隅まで熟知し、担当者に直接指示を出す現場主義。現場を知ってるから、ひらめきも生きたんでしょう。名誉会長になるまで、ずっとその調子で、最近もなんだか文句を言っていました。私なんかしょっちゅうケンカしていた」。

 【最後まで開発に執念】

 かっぱえびせんの爆発的ヒットで「広島の中小企業が、ここまで来られた」(康二氏)という同社。50年にはポテトチップ製造に参入、国内トップシェアに育て上げた松尾氏はジャガイモの安定供給のため、農家と栽培契約を結ぶ、日本の新しい農業スタイルの確立にも尽力した。

 最近も、会社の研究所とは別に自分の研究所を設置。新しい菓子の開発を進めていたといい、「現在、一部地域で店頭に並んでいるわが社の新製品『サクサクポテト』はその成果。試験販売の結果を見ないで逝ってしまった」(康二氏)。

 最後までお菓子作り一筋だった。

 お別れの会は12月1日午前11時30分、東京・帝国ホテル「富士の間」。喪主は長男、聰(さとし)氏。
[ 2003年11月1日(土)13時0分 ]


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