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Tohazugatali Economic Review

932とはずがたり:2005/05/15(日) 18:26:34
創刊1千号記念サイト
http://www.hitachihyoron.com/2005/05/index_b.html
日立評論1千号の歩み
http://www.hitachihyoron.com/2005/05/ayumi/index.html

我が国工業を振わしむるは吾人の任務

 日立製作所の創業は,1910年(明治43年)である。その5年前,1905年に久原房之助が日立の山中で銅山開発に着手した。久原鉱業所(ジャパンエナジーの前身)日立鉱山は,新式の精錬法によって,またたく間に日本有数の銅山に成長していった。ここに工作課長として招かれたのが,日立製作所創業社長となる若き小平浪平である。
 1874年に生まれた小平浪平は,東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後,久原房之助の親族藤田組の経営する小坂鉱山に電気技師として赴任し,止滝発電所(650kW)の開発に携わった。鉱業は日本の殖産興業と輸出を担う花形であり,蒸気力から電力へ動力源の切替えが進められていたのである。
 その後,小平浪平は東京電燈(現・東京電力)に移って,山梨県の猿橋で本邦最大の駒橋発電所(15,000kW)の建設に携わることになるが,発電機,変圧器,水車など設備はすべて外国製で,据付けも外国人技師のもとで行わなければならなかった。
 学生時代の日記に「我国の工業振るわざれば,之を振るわしむは吾人の任務」と記した小平浪平にとって,この状況は耐え難いものだった。そんな折,小坂鉱山時代に知己を得ていた久原房之助から「再び君の力を借りたい」という要請が届き,1906年に一大決意をもって日立鉱山に赴任することになった。32歳であった。

日立製作所に俊英が集う

 鉱山での水力発電所づくりは,落差が取れる適地を求めて道なき山中を巡り,取水堰や導水路の土木工事から発電所,変電所,送電設備の設計・建設までをこなさなければならない。日立鉱山では発電所建設だけでなく,産銅量の拡大にともなって鉱石運搬の鉄索設備,原料や資材の運搬や銅材の積み出しに使用する,鉱山と鉄道を結ぶ電気軌道の建設などが待っていた。さらに,鉱山で酷使される外国製の電動機や変圧器が焼損して次々と持ち込まれ,工作課はその修理にも追われる日々が続いた。
  そうした中でも,1909年にフランシス水車を自前で製作し,1910年には純国産技術で5馬力誘導電動機3台の開発に成功した。電気機械の故障原因の究明と製作方法の研究をたゆまず進めてきた成果だった。これに自信を得て,小平浪平は,電気機械製造事業を行う「久原鉱業所日立製作所」を創業した。
  仕事をこなすには人材がいる。小平浪平は東京帝大の学生を実習や工場見学に招いた。国産技術をめざす小平浪平の気概に接し,東京から遠く離れた寒村にもかかわらず,高尾直三郎(後に副社長)や馬場粂夫(後に専務取締役)をはじめ俊英たちが続々と入社した。しかし,時代は日露戦争後の不況と外国製品優遇の風潮もあって,必ずしも順調なものではなかった。飛躍のきっかけとなったのは,1914年(大正3年)に欧州で勃発した第一次世界大戦である。戦争が長引く中,輸入品が途絶したこともあって,ようやく国産品に目が向けられるようになり,日立製作所は大躍進を遂げることになる。

「日立評論」の誕生

 日立評論は,そうした発展期の1918年1月に創刊された。B5版・48ページ・定価20銭であった。企図したのは設計係長だった馬場粂夫で,日立評論40周年記念号(1958年)で「殆ど愚老単独意見で発刊した」と回顧している。
 当時の日立製作所は,久原鉱業所の一部門にすぎなかった。僻遠の地で,なぜ,そのような発想が生まれたのだろうか。
 馬場粂夫は,「日立評論発刊に就いて所感」の中で,日立製作所の発展ぶりを,創業時「役員数人及び職工数拾人で有つた」ものが,「数百の俊才が数千の職人と共に毎日一つ屋根の下に相見ゆるに至つた」と記している。新規受注と新製品開発に応えるために,「研究係」を創設したのも1918年のことだった。
 しかし,順調なことばかりではなかった。外国製品に対抗する大型品を開発したものの,納入先で製品が壊れることもしばしばだった。その究明と信頼性向上に取り組む若い技術者の中から勃然とわきあがってきたのが,自分たちの手で工業技術研究誌を発行することであった。
 馬場粂夫は,発刊の辞で「本誌は以て多くの気鋭人士の説をフオージし亦ファイン足らしめたい。つまり,米国電気工師会誌及びGE評論を併したるが如き形に進み,斯くして社内の啓発及び国内のリーダーに成つて欲い。新特許を紹介する事,新発見の研究事項を発表する事,『カストマー』の意見の貫徹を計る事,其他多くの人が知つて欲しい所信を発表する事,誤説を駁する事等は誌上を以てするを便とする」と,その志を述べている。
 後に「内にあっては技術の練磨,相互研鑚の場,外に対しては技術知識の紹介と当社の信用に役立つ,細々ながら学術振興を念願としていた」とも語っている。


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