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Tohazugatali Economic Review

533とはずがたり(3/3):2004/05/23(日) 13:35

フロイトによれば、窃視症と露出症は、サディズムとマゾヒズムと同様に、「自己自身への向け換え」の関係にある。「自己自身への向け換えは、マゾヒズムが、他ならぬ自我自身に向けられたサディズムであること、露出症には、自分自身の身体を覗くことがともに含まれていることを考慮すれば、理解できる。マゾヒストも、やはり自分自身に向けられた怒りから喜びを得るのだし、露出症者は、彼の露出を見る者と悦びを分かち合うということについて精神分析的観察は何の疑問も持たない」<sf>。

『悪徳の栄え』など、加虐変態性行為を賛美する背徳的な小説を書き、サディズムという言葉のもとになったサド侯爵が、実際には、女性に鞭で尻をたたいてくれるように頼むマゾヒストだったという事実が象徴的に物語っているように、サディズムとマゾヒズムは、反転する関係にある。マゾヒストとは、自分の鏡像的分身である他者(サド侯爵にとっては、『悪徳の栄え』の主人公であるジュリエット)がサディズムの快楽を感じていることに快楽を感じる人であり、同様に、露出症者とは、自分の鏡像的分身である他者が窃視の快楽を感じていることに快楽を感じる人である。露出症者にとって、露出自体に意味があるわけではない。自分の性器を露出しても、それを見た人が、嘲笑でも悲鳴でも何でもよいから、興奮しているのを見るかあるいは想像できなければ、露出症者は興奮できない。

こうした鏡像的反転の関係は、愛一般に認められる。恋人から愛されることがうれしいからこそ、私から愛されることは恋人にとってもうれしいと想像してうれしくなることができる。だから、私は、たんに恋人を愛すだけでなく、恋人が私を愛すことをも愛すのであり、さらに、私は、私が恋人を愛すことを恋人が愛すことをも愛す。鏡像的な反転関係のゆえに、私は、他者の中の自己を愛し、自己の中の他者を愛す。そして、窃視と露出、サディズムとマゾヒズムも、歪んでいるとはいえ、愛の一形態であることには変わりがないのだから、同様の構造を共有している。

窃視症者は、他者には見ることができない世界を見ることを喜ぶ人であるが、そうした窃視への欲望を満たすだけならば、たんなる快楽の消費者にすぎない。自分が手に入れた世界を公開し、他者が窃視への欲望を満たして喜ぶことを喜ぶ露出症者になってはじめて、快楽の生産者になることができる。映画監督やエコノミストが、たんなるマニアな消費者ではなくて、プロフェッショナルな生産者であるならば、窃視症者であるだけでなく、露出症者でもなければいけない。

田代の告白によれば、覚醒剤を服用したのは、ギャグを考えつくことができなくて焦燥感に駆られていたからだとのことだ。そうだとするならば、田代は、本人がそう説明するように、覚醒剤にのめりこんだ結果、たまたま覗きをしたのではなくて、覗きをするために覚醒剤に頼った、つまり、覚醒剤の幻覚作用にアシストされ、田代独自の世界を覗くことで、ギャグのためのインスピレーションを得ようとしたと解釈することができる。もちろん、このような方法が許されるわけでないことは言うまでもない。

私は、悪事を否定するために、それをその原因となる欲望ごと捨てるべきだとは考えない。私たちが、不健全だと非難しなければならないのは、欲望の満たし方であって、欲望そのものではない。人類が、学問と芸術の花を咲かすことができたのは、窃視と露出への欲望を、正しい方向へと昇華してきたからなのであり、この欲望自体を捨ててはいけない。


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