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Tohazugatali Economic Review
1916
:
とはずがたり
:2018/06/17(日) 20:41:15
サミュエルソンもフリードマンもユダヤ人なのか。
ユダヤ人はパレスチナを侵掠した侵略者として好きではないが,日本人故に欧米人的の迫害的な差別意識は理解出来ないから彼らが壮だからと云って評価は全く変化しないが,ガロアもユダヤ人だと聞いた事がある。だからどうだって感じだけど,京都人の部落差別と似た様な感覚があるのだろうか?
なぜ日本の経済学者は富豪や優れた投資家ではないのか?――元経済記者が、退職後に株投資を始めた理由
https://excite.co.jp/News/economy_clm/20180617/Harbor_business_168356.html
HARBOR BUSINESS Online 2018年6月17日 08時44分
◆経済記者には、株の誘惑が絶えない
私は新聞社を退職するまで、株との縁はほとんどありませんでした。新聞社は記者が株式売買をすることを厳しく禁止しているからです。どこかの企業の株を買えば、何かの関係でその企業について書く場合、好意的な記事を書いてしまうかもわかりません。最悪のケースとしては、事前にある企業の株式を購入しておき、適当な時期にその企業の提灯(ちょうちん)記事を書き、株価が上昇した段階で売り逃げ、利益を得ることも可能です。
そればかりではありません。経済記者は日頃取材のため、多くの経営者、経営幹部と会います。それが仕事だからです。取材の過程で「この記者は、ガードが甘い」と見くびられると、悪魔の手が伸びてきます。「近く重大ニュースを発表するよ。今のうちにうちの株を買っておくと儲かるよ」「近く上場するので、上場前に何株か安く分けてあげるよ」などと誘われ、それに乗ってしまう。
その結果、重大ニュースどころかベタ記事(1段見出しの記事)にもならないような記事を針小棒大に書かなくてはならなくなる。後者の場合は株取得後、「A社、近く上場」などの記事を書き、上場後、株価が上昇したところで売り抜ければ、インサイダー(内部者取引)として金融商品取引法違反として逮捕されます。
特に経済記者には誘惑が絶えません。身を厳しく律する必要があります。新聞社幹部が新人記者を前に記者の心得を話す場合、必ず株取引の禁止を強調するのはそれなりの理由があるわけです。それに記者志望で入社してきた新人は、お金のことにそれほど興味はありません。ニュースを発掘し、それを記事にまとめることにやりがいを感じる者が大半です。
私も気持ちは同じで、新聞社に入社した時、密かに心に誓ったことがあります。それは「苦手(にがて)をつくらない」ということでした。言いにくい相手にこそ、位負けなどせず堂々胸を張って向かい合う。相手が質問されたくないと思っていることを正面から質問する勇気です。そのためには、取材先、取材相手から決して借りをつくらない生き方をすること、このことを肝に銘じて記者生活を送ってきました。
その私が、なぜ株取引に興味を持つようになったのでしょうか。
◆ケインズもサミュエルソンもフリードマンも株をやっていた
私が株に興味を持ったのは、海外の著名な経済学者が株や為替、商品などの取引に関心を持ち、実践してきたことを知ってからです。株や商品取引などでそれなりの成果を上げた学者として、イギリスのジョン・メイナード・ケインズが有名です。
ケインズといえばマクロ経済学の創設者として知られていますが、象牙の塔に引きこもる純粋培養型の学者ではありません。官僚、実業家、投機家などの顔を持つ実務家でした。若いころから株式投資や為替、商品取引などに興味を抱き、実践し、成果をあげています。
ケインズが母校・ケンブリッジ大学の財政立て直しのため、同大の正会計官に就任したのは1924年、41歳の若さでした。それまで大学の基金運用は法律によって信託証券と土地に限定されていました。ケインズは法律が定める正規の基金とは別に、大学が裁量権を持ち、運用できる別のファンドを立ち上げました。そのうえで政府証券、外国政府証券、さらに株式投資や商品投機まで運用対象を広げ、辣腕を発揮して財政立て直しに成功しました。それが評価され、終生、同大学の正会計官の地位を保持することになりました。
もう一つ忘れられないことがあります。私は駆け出しの記者だった1970年頃、日本経済研究センターから1年間、米国・ニューヨークのマンハッタンにある民間の経済研究所、カンファランスボード(CB)に、トレーニー(研修生)として出向、経済予測の勉強をしていました。
その頃、新聞社のニューヨーク支局長のYさんが、著名な経済学者、ポール・サミュエルソン教授(マサチューセッツ工科大学)、ミルトン・フリードマン教授(シカゴ大学)に相次ぎインタビューすることになり、「めったにない機会だから」と声をかけてくださり、同席させていただいたのです。
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