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Tohazugatali Economic Review

1897とはずがたり:2018/03/04(日) 19:57:09

普通の主婦が倒産寸前の町工場の社長になったワケ
ダイヤ精機社長 諏訪貴子
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171124-OYT8T50013.html
2017年11月25日 07時12分

 32歳の専業主婦が、倒産寸前の町工場の社長に――。11月24日に始まったテレビドラマ「マチ工場のオンナ」(NHK、金曜後10時)の舞台は、少子高齢化や経営難などを理由に数を減らす町工場だ。後継者がいないなどの理由で2016年度に、休業・廃業に追い込まれた中小企業は過去最多となった。そうした流れに逆らうように、若くして町工場を継ぎ、経営を立て直した女性社長がいる。ドラマのモデルになったこの女性を、東京都大田区にある小さな工場に訪ねた。(聞き手・メディア局編集部 鈴木幸大)

 ドラマのモデルとなったのは、精密金属加工の「ダイヤ精機」の2代目社長・諏訪貴子さん(46)だ。13年前、夫は勤務する会社で米国赴任が決まっていた。6歳になった一人息子とともに渡米し、家族3人で新しい生活の準備をしていた。夫と子どもを家庭で支える主婦だった諏訪さん。社長になる決意をしたのは、父の突然の死だった。

「余命はあと4日です」
 2004年4月のことだった。…父の保雄が体調を崩し、会社から病院に運ばれたと聞いて駆けつけた
 「余命はあと4日ほどだと思います」
 父は、1964年に「ダイヤ精機」を創業。大手自動車メーカーなどから自動車部品用のゲージ(測定機具)や金型などの設計・製造を請け負っていた。

 社長である父が、数日後にいなくなってしまう。
 事業継承に必要な準備をしなければいけない、と自らを奮い立たせた。翌日、会社を訪れ、社長室の棚や机の引き出しをひっくり返した。

 預金通帳がない。金庫が開かない。社印が見つからない。当時、従業員は30人弱。父は1人ですべてを取り仕切っていた。

 入院から4日目、父は息を引き取った。
 声の出なくなった父は、メモ帳に金庫の暗証番号を書きとめた。それが、父の“最期の言葉”になった。64歳だった。

待望の赤ちゃん誕生に落胆
 私には、1961年に生まれた兄・秀樹がいた。3歳のときに白血病を患い、わずか6歳で他界した。

 父は、将来、ダイヤ精機の跡取りになる男の子を望んでいた。兄を失った父にとって、待望の子どもが私だった。しかし、赤ん坊の誕生を知らせる電話に父は落胆した。

銀行に見限られた“素人社長”

 父が亡くなった後、2004年5月、社員や取引先に要請される形で社長を引き受けることになった。
 社員は好意的に2代目を迎えてくれた。ところが、就任間もなく会社を訪ねてきたメインバンクの支店長と担当者は違った。
 銀行は合併先を用意し、社長退陣のシナリオを提案してきた。ついこの間まで主婦だった“素人社長”を早々に見限っていたのだ。

 バブル崩壊後、ダイヤ精機は長引く景気低迷で、売り上げはピークの半分以下の約3億円に落ち込んでいた。社員数は当時と同じまま。リストラや身売りを提案されても仕方ない経営状況だった。

 それでも、私は突然の退陣提案に頭へ血が上り、「冗談じゃない。とにかく半年待って。それまでに結果を出すから」と何の当てもなく啖呵たんかを切った。

 1か月前まで主婦だった創業者の娘である私が、社長に就任してわずか1週間で5人のリストラを断行した。
 「なんてことするんだ。このやろう」
 古参社員の1人は食ってかかってきた。「社長になってほしい」と私に求めた社内の雰囲気は一変した。
 5人のリストラで、月に200万円ほどの人件費を削減。経費を見直し、とことん切り詰めた。

 意図せず“お飾り”の社長ではなく、実権を握るという意思を社内に表明することになった。

 これまでのやり方に慣れているベテランからは抵抗されることもあれば、罵られることもあった。
 言い争い、ぶつかり合い、そして、歩み寄った。最初の1年は、新生「ダイヤ精機」の経営を模索する私と社員との格闘の時間だった。


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