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Tohazugatali Economic Review

1■とはずがたり:2003/02/24(月) 18:56
経済(学)スレです。個別ネタは各スレッドでしますが一般スレが無いので立てます。
景気やマクロ動向なども。

1824とはずがたり:2017/06/20(火) 10:46:32
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1036658425/2923を読んでて思いついた。

資本主義はマルクス経済学の用語で云う所の「階級斗争」と共に始まった。蓄積された資本を再投資して労働する事無く生活する資本家─ブルジョアジーと,貯蓄無しでその日暮らしをする労働者層─プロレタリアートの対立である。
囲い込みによって生産手段から自由になった小作農が都市部に流入し産業予備軍として低廉な労賃で働く困窮する労働者層を形成し,それが資産家の資本主義生産を可能にしたのである。

その階級斗争が社会主義への必然的な移行を招くと云うのがマルクスの予言,寧ろ預言,だった訳だが,実際に到来したのは修正資本主義社会である。
蓄積された資本を再投資して働く事無く遊び暮らせる資本家なんか居なくなって,資本家も労働者もアウフヘーベンして,新古典派的な"家計"になったのである。
家計は労働を供給し,所得の一部を貯蓄=資本投資して最適な消費流列を制馭する。現代の,少なくとも戦後続く現代経済のメインプレーヤーとして社会に安定と繁栄を与えてきた。

そして今。現代経済の発展を支えてきた技術進歩は遂に労働者を放逐し始めた。仕事が無くなって行くのである。
こうなると全員失業するぞと危機を煽る向きが増えてくるのは已むを得ないし実際社会の安定性は失われつつあるが,これは社会全体が資本家になる社会である。
全員,AIを購入して起業して稼がないとダメなのである。労働者はベンチャー企業の高級幹部のみであり,雇用して貰えない者は自分で起業するしかなくなる。

こうなると社会のセーフティネットは会社経営の破綻に備えるセーフティネットである。なんと再挑戦させても会社を潰す経営能力無い者が生活保護の対象となるのであろう。。
これから到来する無労働社会,行ける気がしてきた。

1825とはずがたり:2017/06/26(月) 12:55:09

「日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。」
日本の希望はNPOなど「協」セクターにある。様々な分野で問題解決してる。人が育ってきている。
憲法改正論議についても心配していない。 日本の市民社会は厚みがある。
経産省のペーパーには移民や外国人についての言及がなかったが、根本的な論理構造は上野氏のそれと多くを共有しているように見える。だいたい、こんな感じである。

"人口の高齢化という構造要因のなかで、(移民の受け入れも)社会民主主義的な(=福祉国家的な)再分配機能の強化も現実的ではない(むしろ再分配機能は別様にずらしつつ縮小すらすべきである)。そして、(高齢者の)労働強化と市民社会による代替が再分配の不足を埋めあわせる鍵になる。"

私個人の感想としては「よく聞く話」というものである。それに対して、最後に、私のスタンスを以下の3つにまとめておく。

①まず「財政的制約」については、現在の税制を思考停止的に前提とすべきではなく、所得税、消費税、相続税、法人税など様々な税目についての検討、加えて課税ベースの強化についてのオプションをしっかりと出していくべきである。それは財務省の仕事だというかもしれないが、そもそもこのペーパーの所管範囲は経産省のそれではない。歳出サイドだけでなく、歳入サイドについても検討・議論の範囲を広げるべきである。もちろん、税だけでなく社会保険や国債などの組み合わせ全体が議論の対象となる。議論の線としては、アトキンソン「21世紀の不平等」などを参考にしており、国家による再分配機能の縮小=新自由主義路線ではなく、再分配機能の再度の強化をこそ志向する。言葉の正しい意味で、「弱者」が増えているからである。

②「制度が依存的な弱者をつくる」という考え方について。その側面があることを否定はしない。では、「制度に頼るべき弱者」と「制度に頼らなくて済む強者」、ある個人がそれらのどちらであるかについて、誰がその線を引くのか。このペーパーのスタンスは明確である。その個人が「自分自身で引く」「自分自身で選択する」のである。そして、そのことがもたらすひどく恐ろしい効果を想像してみてほしい。「一億総活躍」と「財政の持続可能性」が骨がらみになって主張されているさなか、「どんな人生の最期を迎えたいですか?」と社会から個人に対して自己決定が促されるわけである。年金を受け取ることのスティグマは強化され、「延命治療を受けたい」と口に出すことは憚られるようになるだろう。少なくとも私はそういう国にしたくない。表面的な「自己決定」が「社会からの強制」に等しくなる構造を想像するのは容易いからだ。持っている権利を社会の期待に合わせて自ら捨て去ることの恐ろしさに気づいているのは弱者の側だけであり、そして、誰しもいつかは弱者になるのである。

③最後に、そして自分が企業からのNPO支援などに深く関わっているからこそきちんと言っておきたいのだが、「国家が担ってきた領域の個人による代替」について。個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない。前者は後者に付加されるべきものであって、代替することを想定するべきものではない。NPOセクターに限ってみても、その力がまだまだであることの根本的な要因は、よりプリミティブな意味での質の高い人材の不足と、それと強く相関する活動資金の圧倒的な不足にある。そして、国家は国家業務の外部委託や助成金などの投入という形で、NPOセクターへの最大の資金の出し手なのである。その事実を踏まえずに「公を民が担うのだ」というビジョンを掲げることは、緊縮財政の実現を通じて、結果としてのNPOセクターの縮小を招くだろう。

1826とはずがたり:2017/06/26(月) 12:55:19
>>1824-1826
さて、経産省による「次官・若手ペーパー」の内容に触れてきた。ウェブ上での反応を見ると「新しい内容」と捉える向きもあるようだが、こう整理してみれば明瞭なように、これまで何度も言い古されてきた緊縮・福祉国家再編の論理であり、新しさはほとんどない。むしろ、本資料についてきちんと考察・理解しておくべきことは、このペーパーが現在の政府全体の動きとどこが同じでどこが違うかである。基本線としては「一億総活躍社会」という政府全体のスローガン及び関連する政策内容とかなりの程度呼応していると私は判断している。その意味でも新しさはほとんどないと言えるように思う。

力ある者が真面目な気持ちで危機を煽るとき、力なき者は自分の立っている地平を見失ってはならない。なぜなら、力なき者たちが自らの支えを失ったとき、彼ら=私たちが自分の指導者として誰を選ぶにいたるか。その想像力こそが、煽られた危機に臨む私たちにとっての試金石となるからである。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。


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