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Tohazugatali Economic Review
1703
:
とはずがたり
:2016/08/26(金) 17:59:54
断ち切れなかった「負の系譜」
周知のように、三菱自は最初のリコール隠しが発覚した3カ月後の2000年10月、独ダイムラー・クライスラーと資本提携。同社は今回の日産と同様34%を出資して筆頭株主となり、2002年6月にはダイムラー出身のドイツ人、ロルフ・エクロートが社長に就任し、三菱自経営者の「負の系譜」は断ち切られたかに見えた。が、2回目のリコール隠し発覚でダイムラーはあっさり撤退。2004年4月にエクロートは辞任し、同6月には三菱自生え抜きの多賀谷秀保が社長の座についた。ただ、社内外で全く無名だった多賀谷にはもとより求心力が働かず、在任期間はわずか7カ月。この短命社長の後任に指名されたのが三菱商事出身の益子だった。
2005年1月の益子の社長就任と三菱重工業会長、西岡喬の三菱自会長兼務というトップ人事の経緯は、拙稿(2009年12月号「『アイ・ミーブ』の広告塔 益子修の凄み」)に詳しいので繰り返さないが、同じ三菱グループでも他社出身の益子と西岡が率いる新体制は、当時は三菱自の「負の系譜」と一線を画していたように見えた。しかし、今にして思えば、それは錯覚だった。ダイムラー撤退で本来なら三菱自は破綻しかけていたにもかかわらず、三菱「御三家」が約6000億円を投じて救済。結局、スリーダイヤの威光で生き延びることができた三菱自の社内では、部門間の人事交流も滞ったまま「内向き」の体質が温存されてしまったのだ。
ブラックユーモア
2014年6月のトップ人事で益子が指名した後任社長は、相川哲郎。三菱重工社長、会長を歴任したグループのドン(首領)相川賢太郎(88)の長男(1999年に西岡を三菱重工社長に指名したのは、当時会長の相川賢太郎だった)ということ以上に、相川哲郎には「社長不適格」の要素があった。それは5月18日の社長辞任会見で自ら述べている通り、「不正が起きた開発部門に私は長く在籍し、その風土で育った私が社長のままだと改革の妨げになる」からだ。
「開発畑30年、『eKワゴン』などヒット商品の開発者」
これが2年前に社長に就任した際に三菱自の広報部門がマスコミに売り込んだ相川哲郎のキャリアだが、開発畑30年というのは「タコ壷化」の裏返しであり、「eKワゴン」は今回の燃費データ不正の当該車種なのである。今回の不祥事が発覚した後では、相川哲郎の社長就任はブラックユーモアとしか思えない。この人事を主導した益子が会長兼CEOの座にとどまり、「再発防止に向けた体制作りに取り組む。(社長の後任人事は)大株主である三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行の3社とよく相談して決めたい」と会見で発言しているのもお笑い種だ。この期に及んで益子に三菱自の体制刷新を委ねなければならないほど、三菱グループには人材がいないのだろうか。
実は満身創痍の「三菱重工」
「三菱グループの『モノ作り』が衰退している」と言われて久しい。実は、最初にその兆候が表れたのは、相川賢太郎が会長として君臨していた時代の三菱重工だった。三菱自の最初のリコール隠しが発覚する直前の2000年3月期に、三菱重工は海外プラント工事の採算悪化によって、連結最終損益が1370億円の巨額赤字に転落。翌2001年3月期も203億円の連結最終赤字が続いた。1990年代後半に会長だった相川が檄を飛ばして安値受注を推進。製造段階でコストダウンを図って利益を上げる計画だったが、その思惑は実現しなかった。「受注価格が低過ぎると誰もが思っていたのに、会長(相川)の方針に異議を唱えることができなかった」と当時の重工幹部は話していた。
無理なコストダウンは生産現場に不当なプレッシャーを及ぼす。1999年に社長に就任して相川の尻拭いをすることになった西岡は、「現場を回ってその荒廃ぶりに驚いた」と後に語っている。実際、2002年4月から7月にかけて同社名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場(愛知県)で航空自衛隊機の電気系統ケーブル切断事件が、さらに同年10月には長崎造船所で建造中の大型豪華客船「ダイヤモンドプリンセス」で放火と疑われる火災事故が相次ぎ発生するなど、「現場の荒廃」を彷彿とさせるような不祥事が起こっている。
こうした現場の荒廃に苦しんだ西岡が「重工の士気高揚」を目指して着手した半世紀ぶりの国産旅客機「MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)」の開発は難航し、当初2013年を目指していた1号機の機体納入は4度の延期を余儀なくされ、現在の目標は2018年にずれ込んでいる。
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