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Tohazugatali Economic Review
1440
:
とはずがたり
:2013/05/28(火) 13:44:49
梅竿忠夫はセイ法則を知っていたのかw
大阪のはずれだった「梅田」 表も裏もなくなったが…
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130528531.html
2013年5月28日(火)13:13
数年ぶりに大阪にやって来たという知人が目を丸くしていた。
「大阪駅で人の流れについて行ったら、見たことのないところに出てしまった。確かこっちは駅の裏側だったと思うんだが」
4月26日にオープンしたグランフロント大阪のことのようだ。
再開発地区「うめきた」に計4棟の高層ビルとマンションが建った。商業施設部分には「日本初出店」「西日本最大級」などをうたい文句にする266店舗が入居している。
東京の新名所がスカイツリーなら、大阪はグランフロントである。オープン当初のゴールデンウイークには1日約35万人がつめかけた。この1カ月の来場者は東京スカイツリータウンを上回る761万人に達した。人気の飲食店は今でも1〜2時間待ちの行列ができる。
梅田の人の流れが変わった。JR大阪駅を挟んでの、表も裏もなくなった。いや、今年の公示地価でグランフロント大阪の地点がいきなり大阪でトップに躍り出たから、もはや逆転したと言っていいかもしれない。
梅田という地名は「埋田」に由来する。もともと低湿地が広がっており、これを埋め立てた。大阪のはずれだったのである。
明治7(1874)年に大阪−神戸間に鉄道が開業した。大阪駅は当初、江戸時代から米相場などで栄えた堂島付近に造られる予定だった。ところが、「汽車は火の粉を吐くので火事になる」と住民が猛反対した。で、民家がまばらにしかなかった梅田にできた。「梅田すてんしょ」と呼ばれた。当時はまだ大阪市域に含まれず、西成郡曽根崎村だった。
鉄道はやがて京都に延伸された。鉄路を伸ばすには町はずれの方がやりやすい。それを見越してか、ターミナルは終着駅のスタイルではなく通過式にした。先見の明があった。
鉄道は人を運んでくる。人々は路面電車に乗り換えて市内中心部へと向かう。人の流れから駅の南側が表になるのは当然である。
交通の要衝になった大阪駅から貨物を分離して北側に専用駅ができた。構内に掘割が設けられ、貨物は船に積み替えて各所に運ばれた。「水の都」は名前だけでなく、こうした機能を有していた。
空襲で大阪駅周辺は焼け野原になった。南側には次々にビルが建ったが、北側は雑然とバラックで埋まった。戦後も表と裏は代わらなかった。
ついこの間のことである。
それがかえってよかったのかもしれない。梅田貨物駅の移転が決まって、広大な跡地利用が論議されるに伴って、裏側は大阪に残された「最後の一等地」として脚光を浴びた。言い換えれば“宝の山”を温存してきたのである。
表側も指をくわえてはいない。阪神百貨店が隣接する新阪急ビルと一体化して建て替える計画を発表した。
JRに阪急、阪神、それに地下鉄3駅を合わせて1日約230万人が乗降する。梅田はもともと商業地としてのポテンシャルが高い。
にしても、百貨店4店に加えて、商業施設の集中で日本一の激戦区になったのはオーバーストアではないだろうか。グランフロントに人は集まっても客単価は目標の半分以下である。大阪人には新しいもの好きと財布の紐の固さが同居している。
だが、大阪は常に前を向く。
阪急グループの総帥だった小林一三は「乗る人がいなくて赤字になるのなら、乗客を作り出せばいい」と言って、実際そうなった。
「供給してみい、需要が出てくる」。こちらは民族学者、梅棹忠夫の言葉である。(大阪特派員 鹿間孝一)
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