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Tohazugatali Economic Review
1204
:
とはずがたり
:2006/10/30(月) 13:01:13
一万田の事をやたら褒めて書いてあるが,新産業都市は結局自民党の横やりで日本中に指定されてしまったのだし,そもそも大分はちゃんと指定されてしかも数少ない成功した部類にはいる。更に他にも野武士集団川鉄が千葉に製鉄所建設を強行しようとしたときに「ぺんぺん草を生やしてやる」と言い放つ等,傲慢で将来の見通しの悪い男だったのでは?
国会NOW:日銀「法王」の誇り 福井氏はどう答える2006/06/24
http://www.janjan.jp/kokkai_watch/0606/0606236614/1.php
ここで、そもそも日銀総裁とはどうあるべきなのか、高く評価された日銀総裁が過去にいたので、取り急ぎ資料を集めてみた。考える材料にしたい。その総裁とは、敗戦後まもない昭和21年(46年)から8年間務めた一万田尚登(いちまだ・ひさと。84年、90歳で死去)である。大分県出身で、戦前に日銀に入った生え抜きである。時の首相・吉田茂がワンマンなら、一万田は日銀の「ローマ法王」と呼ばれた。(日本銀行ホームページ歴代総裁・一萬田尚登も参照)
マッカーサーら進駐軍の信任が厚く、経済混乱のさなか日銀の力が強まったなどの条件に加え、一万田本人の力量があいまって権勢をふるったようだ。中央銀行の独立性を一万田も強調している。今日、福井氏の進退をめぐり、先に本欄「総裁、長官……あーあ」でも記したように独立性はキーワードでもあり、参考になろう。これは後述する。
まず、村山富市元首相である。村山氏が首相退陣後、日本経済新聞連載の「私の履歴書」(96年6月)で回想した記述である。一万田は日銀総裁から鳩山内閣の蔵相に就任し、合わせて大分から衆院選に出馬し、政治家になった。そのころ、大分県議だった村山氏は他の県議や市町村長らとともに上京し、大分市を新産業都市に指定してもらうべく陳情に県選出国会議員のもとへ出向いたそうだ。
そのとき、一万田が「新産都市の指定は、これからの日本経済をどうするかという視点で決まるもので、陳情などで決まるものでない。労働組合がデモするようなまねはやめなさい」と述べたという。これに対し、陳情団はしらけてしまったそうだ。しかし、村山氏は一万田を「立派な人だ」と思ったそうだ。そして、「信念にしたがって思ったことをはっきり言える」「ただただ感服した」などと記した。これは一万田が政治家になってからのエピソードである。しかし、人物としては、視野を広く、個別でなく全体利益を考えることを旨としたということだ。
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