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政治思想総合スレ

1■とはずがたり:2002/12/07(土) 02:10
ウヨ・サヨ・保守・リベラル何でもありで且つ冷静に。思想史なんかも歓迎で。

507名無しさん:2015/08/15(土) 21:39:32
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150812-00076475-diamond-soci
リベラル陣営にも出始めた「言論統制」の空気への危惧
ダイヤモンド・オンライン 8月12日(水)8時0分配信

● 「日本ならず者国家論」再考(1): 「改憲」こそ「ならず者国家」のレッテルを脱する道

 この連載では、「日本ならず者国家論」という論考を何度も出してきた(第59回などを参照のこと)。それは、憲法9条の存在が、日本を「かつて侵略戦争を起こした、ならず者国家の地位に貶めたままにしている」という主張である。

 もちろん筆者は、憲法9条についての「通説」を理解している。通説とは、護憲派の「憲法9条によって、日本が平和国家として国際社会での地位を確立してきた」という主張だ。だが、筆者は真逆の考えを持っている。むしろ、日本は「憲法9条があるからこそ、中国、韓国などの近隣諸国から信頼を得られず、過去の過ちを反省していないと批判され続けている」のではないかと考える。なぜなら、日本国憲法の制定過程を振り返れば、憲法9条とは「かつて侵略戦争を起こした、ならず者国家である日本が、再び軍事的冒険に走らないよう抑え込むことを目的としたもの」であることは、明らかだからだ(第85回・2p)。

 例えば、子どもの喧嘩で、金属バットを持った子が、相手を殴ってケガをさせてしまったとしよう。殴った子は、二度と乱暴なことができないように、親から金属バットを取り上げられるだろう。第二次大戦の敗戦国である日本の立場とは、この金属バットで殴った子と同じようなものだ。かつて侵略戦争を起こし、世界中を戦争の惨禍に巻き込んだ日本が、二度と戦争を起こすことがないようするには、兵器を取り上げるしかない。憲法9条とは、「日本という暴れ者から兵器を取り上げる」ことを規定したものに他ならないのである。

 確かに、日本は戦後70年、憲法9条を守り「平和国家」の道を歩んできた。奇跡的な高度経済成長を成し遂げ、世界中の途上国を支援してきた。国際社会の信頼も回復したように思える。だが、それは憲法9条という制約の下で、日本という「ならず者」が大人しく罪を償ってきた過程である。更生が終わって、日本の本質が変わったと証明されたわけではないのである。

 実際、国際社会では、日本に対する不信感が根強く残っているのが現実だ。多くの日本人にとっては不本意であろうが、第二次大戦中の従軍慰安婦問題は「性奴隷」だとみなされ、重大な人権侵害を犯したと批判され続けている。「捕虜虐待の問題」に対する憎悪も世界中で残っている。一般的に、これらの批判は中国・韓国に限定されるものと考えられがちだが、実態はまったく違っている。むしろ、日本に対して最も厳しい批判を展開しているのは、欧州の知識人層なのである(第69回・5p)。

508名無しさん:2015/08/15(土) 21:41:21
>>507

 そもそも、第二次大戦の戦勝記念日の式典が世界中の国々で毎年開催されるが、どこの国に対する戦勝かといえば、それは「ドイツ」とともに「日本」でもある。なによりも、国際連合では、日本に対する「敵国条項」がいまだに残っている。日本がいまだに「ならず者国家」である証拠だ。なによりも、日本国憲法制定の過程を振り返れば、憲法9条とは、かつて日本と戦争を戦った国が、日本が再び近隣諸国を侵略し蹂躙する「ならず者国家」に戻らないために設けた、特別な条項なのである。

 また、日本国内においても、東西冷戦下の55年体制下の社会党・共産党や、その流れを汲むリベラル陣営は、憲法9条の目的が「ならず者国家」を抑えるためのものだと実質的に認めてきた。彼らは「自民党政権は戦前の軍国主義の流れを引き継いでおり、憲法改正により再軍備を図ろうとし、再び世界中を恐怖に陥れる危険な存在だ、だから憲法9条を守らねばならない」と訴え続けてきたのだ。

 従って、日本が「ならず者国家」のレッテルから脱するには、まず憲法9条が撤廃される必要がある。そして、それだけでは不十分だ。「憲法9条がないとならず者国家に戻る」と疑う国内外の勢力を納得させるためには、憲法9条を撤廃後に、どんなに困難な国際紛争に直面しても、知恵を振り絞り、ありとあらゆる手段を用いて、外交交渉で問題解決する姿勢を貫き続けねばならない。この覚悟ある姿勢を何十年も続けて、初めて日本は「世界で最もシビリアンコントロールの効いた平和国家」として認められることになるのだ(第59回・4)。

● 「日本ならず者国家論」再考(2): 真の平和国家と認められるために、長く続く茨の道

 それでは、「憲法を変えて軍隊を保持する。しかし、シビリアンコントロールと徹底した外交努力で、軍隊を使わない平和国家」となることを志向するとは、どういうことだろうか。

 戦争を防ぎたければ、まず現実的な安全保障政策に精通しなければならない。安全保障政策の本質は「武器を使わないために、武器を揃えること」であり、「武器を使うことになったら失敗」である。だから、平和を志向する者ほど安全保障政策を学ぶ必要がある。

 また、現実的な政策だけではない。「なぜ戦争は起こるのか」「戦争を防ぐにはどうするのか」という、より本質的な問題を突き詰めて考えていく必要がある。戦史研究、外交史研究、兵器研究、地政学、国際関係論、政治学などさまざまな学問を広く、深く学んでいかなければならない(第85回)。

509名無しさん:2015/08/15(土) 21:42:42
>>508

 それは、「ひたすら憲法を守れば平和国家になれる」「安全保障を論じること自体が悪」であるという古い固定観念とは一線を画す姿勢である。一方で、「改憲すれば軍隊を自由に使える」「戦争をするために安全保障政策を進める」という単細胞的な思考とも相容れないものだ。厳しい覚悟を持って、さまざまなことを学び、考えながら、長い時間をかけて茨の道を一歩一歩進んでいくことになるのである。

● 「知の拠点」であるはずの大学で 次第に広がる自由な言論がやりづらい空気

 日本が「ならず者国家」のレッテルから脱し、「真の平和国家」を志向するための「知の拠点」となるべきは大学であるはずだ。しかし、その現状は深刻だといわざるを得ない。

 もちろん、政治に関心がないといわれ、政府に反発するデモなどとてもイメージできなかった日本の大学生から、「戦争反対」のムーブメントが起こってきたこと自体は、評価に値すると思う。海外では、学生は政府の意思決定に強い影響力を持つ「アクター」の1つである(第91回・3p)。香港の民主化運動や、英国の学費値上げに反対するデモなどだけではなく、学生は世界中で「民族問題」「マイノリティの人権」「反核」「軍縮」「環境問題」など、さまざまな社会問題に対して、常に意見を表明している。それと比べると、日本の学生はあまりに政治に対する意識が低く、政府に無視される存在でしかなかった。その意味で、今回大学生が「戦争に行きたくない」と政府に訴えようとしていること自体は、悪いことではない。

 しかし、大学生は「純粋」であればいいかもしれないが、学者は純粋なだけではいけないはずだ。現在、さまざまな大学で、「安保法制成立に反対する声明」を学者が連名で出す動きが広がっている。筆者は、学者の連名での意見表明自体に肯定的ではない(第107回)。だが、百歩譲って、それも「言論の自由」だと認めることはできる。ところが、安保法制に肯定的な考えを表明した同じ大学の1人の学者を、集団で「大学の名誉を傷つけた」と批判したというのは、いかがなものだろうか。

 それは、「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の独立」を守るべき大学という場に与える悪影響が大きすぎるのだ。まず、さまざまな学問領域で先端を走るべき若手の研究者たちが、委縮して自由に意見を言えなくなってしまうことだ。

510名無しさん:2015/08/15(土) 21:47:37
>>509

 学者として外国育ちの筆者には無縁な世界だが、日本の大学には「徒弟制度」のようなものが残っている。学者の間で師匠・弟子の上下関係が存在するのだ。今回連名で声明を出した学者たちは「師匠」であり、若手は「弟子」である。弟子が自由に意見を表明して「大学の名誉を傷つけた」と師匠に非難されるとなれば、若手は「破門」を恐れて沈黙するしかなくなってしまう。

 たとえ直接的に師匠・弟子の関係でない学者の間でも、自由に意見を表明した結果、多数の学者から連名で「大学の名誉を傷つけた」と責められることになるのは面倒である。できればこの問題には触れないで沈黙しようということになってしまう。現在、学内での自由闊達な議論は次第に失われ、重い空気が流れつつあるように思う。

 その上、問題なのは学生に対する悪影響である。学者は大学教員として、学生の成績評価者なのである。大学での成績は、学生の人生を左右することもある重いものであり、学者が学生に対して、ある種の「権力」を持っているのは明らかだ。だから、学者が自らの思想信条を明らかにする時、授業の受講生である学生に対して、極めて慎重な配慮が必要になってくるのだ。

 筆者は、この連載をはじめ、論壇のさまざまな場で政治・社会問題に対して考えを表明する機会が多い。だからこそ授業等では、学生に対して「私と異なる意見を持っても全く問題がない。試験やレポートにそれを書いても構わない。むしろ、多様な意見は歓迎である」と繰り返し話をしてきた。しかし残念ながら、それでも試験の答案用紙に、筆者の意見をまるでコピーしたような答えを書く学生が少なくないのである。

 学者は、大学で学ぶ若者の「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の独立」を守らねばならない。しかし、現実の大学教育の現場では、それは簡単なことではない。慎重に取り扱わなければならないことなのである。ところが、そのことに軽率な学者が多すぎるように思うのだ。

 そして、更に問題なのは、憲法学を「平和を守る善い学問」とし、国際関係や政治学、安全保障研究、戦史研究、外交史研究、地政学、戦時国際法を「現実と称して戦争へ向かう悪い学問」というレッテルを張り、大学の研究から排除するような空気が流れていることだ。以前、この連載では、そういう署名運動をやっている学者グループを批判したことがある(第95回・2p)。その時点では、変わった学者たちがいるというだけの印象だった。だが、現在では日本のさまざまな大学で、そういう動きが広がっているように感じている。

511名無しさん:2015/08/15(土) 21:48:29
>>510

● 保守とリベラルによる言論統制合戦: 自由・独立を失う社会は、衰退の道を歩むしかない

 筆者は、年頭の当サイト記事「5つのポイントで占う2015年」で、以下の通り指摘していた。

  『安倍首相による統制の強化は、リベラル陣営の強硬な反発を生み、活動を活発化させるだろう。だが、リベラル陣営は日本人が本来持つ「多様性」を重視するわけではない。むしろ、リベラル陣営こそ、言論統制の本家本元的な側面を持っている(中略)。

 このような動きは、ある意味保守陣営の統制よりも性質が悪いものとなるだろう。保守の統制は下品なだけだが、リベラルは一見教養があるように見える上に、大学教授という権威を身に纏っているからだ。要するに、保守だけではなく、リベラル両陣営からも言論を統制する動きが起こり、日本社会全体に自由に発言できない空気が広がっていく懸念がある』

 現在の日本社会は今、この通りに進んでいるのではないだろうか。国政選挙で連勝を重ね、衆参両院で安定多数を確保した安倍晋三政権は、「やりたい政策」への意欲を隠さなくなり、言論統制的なやり方も目立ってきていた。しかし、これに反発したリベラル陣営によって、猛烈な反対運動が始まった。

 リベラル陣営による反対運動は、保守側の自民党若手議員の勉強会での大放言のような、下品なことを言って批判されると首相自ら平謝りという単純なものではない。大学教授や識者のような知性・品格・権威を纏った人たちが、次第に自由な言論がしづらくなる空気を作り、周到に異論を排除している。そして、社会全体を画一的な考えに染めようとしているのだ。

 日本社会は「右傾化」したと言われる。だが、その反動として急速にリベラルも強くなり始めていることを見逃してはいけない。そして、どちらも人々の言論を統制しようとして競い合っている。その結果、日本社会では、現実的な思考を持つ多数派である「中道」的な人々が、自由に意見を言いにくい空気が流れ始めている。

 現代は、保守やリベラルが主張する「絶対賛成」「絶対反対」で成り立つほど、単純にはできていない。どのような政治・社会問題でも、その現実的な解決策は、絶対的な「賛成」「絶対」の中間にある、多様な考えの中から見つけざるを得ないのだ。だからこそ「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の独立」を守ることが重要になってくる。社会が自由・独立を失う時、人々は現実的な問題解決の術を失い思考停止となる。その結果、衰退への道を歩むしかなくなってしまうのである。

上久保誠人


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