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セメント

324とはずがたり:2013/02/02(土) 15:28:06

昭和32年版(東海道線全線電化直後だそうでw)の専用線一覧表によると篠山線(1972年廃止)の八上駅に日鉄鉱業(略称は日鉄山♪)の専用線があってた。

調べてみると朝鮮から強制連行して来た方々が働かされたりした過去が有った模様。耐火煉瓦に成る珪石が採れたようだ。

篠山市&朝鮮半島交流史
―古代から現代まで―
(篠山市在日コリアン足跡調査中間報告)
http://www.pure.ne.jp/~jinken/chosenhantou.htm
篠山の鉱山と朝鮮人
徐根植<ソ クンシック>
2,珪石鉱山と在日朝鮮人
① 在日朝鮮人が篠山の珪石鉱山で多数働いていた。
・同胞の話では戦中戦後も鉱山での労働は朝鮮人が多数を占めていたという。
・戦後の鉱山では朝鮮人の親方の下で日本人が働いたり、日本人の親方の下で朝鮮人が働いていたりしていた。

② 篠山にもあった朝鮮人強制連行
1946年厚生省勤労局が「朝鮮人労務者に関する訴査の件」を地方長官に指示し、各地域の勤労署が企業に指示し調査が行われた。この調査は日本の官庁が戦後すぐに行ったのですが、通達の内容から朝鮮人強制連行関係の調査といえる。
通達の中の「調査上の注意に「1,官斡旋徴用に依る移入労働者に限ること、2,「自由募集による移入者については夫々各表に準じ別途作製すること。」とある。
『朝鮮人強制連行』という言葉は朴慶植先生が初めて使われた用語です。
 それは1938年に公布された「国家総動員法」、これにもとずき「労務関係勅令」が発動され企画院による「労務動員計画」がたてられ1939年には「国民徴用令」が発表され、日本人が戦争に大々的に動員されていきました。朝鮮に関しては「徴用令」の適用をさけ「募集」形式の動員計画がたてられました。
 1939年7月内務、厚生両次官名儀の依命通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」によりこの年8万5千名の朝鮮人の集団連行が各業者に認可された。
 このときから「自由募集」「官斡旋」「徴用」などと動員方式を変えて朝鮮人を大々的に労働力として日本や戦地に無理矢理送ったことをいう。このことを実態にふまえて「朝鮮人強制連行」と呼んでいる。

・畑鉱山に強制連行された朝鮮人がいた。
1984年1月丁度20年前になります。このとき篠山の同胞の歴史を調べたとき当時、畑に住んでおられた「キンドグツ」さん通名は「国本」もう一人は「リチュネ」さん通名は 「岩本」というお二人から畑珪石鉱山での朝鮮人について聞き取りをしました。
 このときお二人から「戦争中畑鉱山だけでも80人から100人くらいの朝鮮人徴用人夫が来ていた」との証言を聞いた。
 この時点では証言だけで裏付ける資料がなかった。
 しかし先にふれた1946年厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査の件」の名薄が見つかり入手することで判明した。
 名簿は1990年5月当時の韓国大統領領慮泰愚氏が日本を訪間したとき韓国政府から日本政府に「戦前戦中の朝鮮人連行者の名簿作りについて」要請があり、その後日本政府の調査で見つかった名簿が3回に分け計10万7904名分を韓国政府に引き渡した。
 この中に兵庫県分1万3477人の中に「官斡旋」で畑鉱山に連行された80名の名簿があった。証言が裏付けられた。真実だった。すなわち畑鉱山に朝鮮人強制連行があったと言うことだ。
 篠山に来たのが1944年11月14日、丁度60年前です。
 人数は80名でその内30名が1945年5月1日に鳥取県「日野鉱業所」に派遣された。終戦に依る帰国は20名、逃亡は17名、病人は6名、死亡が2名です。

・連行された朝鮮人の飯場がわかった。
田中秀夫さんの証言で新事実が判明した。
官斡旋で畑鉱山に連行された朝鮮人たちは鍔市ダムの少し奥に篠山町の色町にあった二階建ての建物を解体し、ここで組んだ飯場で生活していた。


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