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セメント

319とはずがたり:2013/01/02(水) 20:33:47

【日本石灰石開発設立】
1956(昭和31)年10月 当時昭和電工では鹿瀬,富山,塩尻の石灰窒素製造の自社3工場へカーバイド原石を鹿瀬・水谷鉱山から供給していたが,水谷鉱山の残量が少なくなって来ていた為,明星山を新たに開発する計画を進めていた。また親不知で石灰石の自家採掘をしていた信越化学工業社も黒姫山に石灰石の鉱業権を取得していた。鉱山開発には莫大な資金が必要であり,この様にカ社と同じ様に原料石灰石不足の立場にあった昭和電工社との間にまず共同開発の議が起こり,信越化学社の合流を得て,3社共同出資により日本石灰石開発が設立。3社はともに近傍の新潟県・富山県下にカーバイド工場を有していた。同社の目的はカ社田海鉱区並びこれに隣接する信越化学社田海鉱区,並びにに昭和電工社の明星鉱区の開発であり,設立当初年間採掘目標を100万tに置いた。同社は設立後直ちに田海鉱区の開発を進め,32年4月の雪解けをまって田海工業所建設に着手し,1ヶ年の工期と12億円の投資により33年5月に完成,直ちに精鉱の供給を開始したが,その掘削・選鉱・運搬設備は東洋一を誇っている。カーバイド用石灰石は一定サイズ以上のものに限られる為,全採掘量の40%にもなるそれ以下のサイズの細石や採掘・破砕時に発生する屑石の有効活用が急務となる。

【明星セメント(株)の設立】
1958(昭和33)年 3月に専用側線完成する[出典:明星セメント社史]など日本石灰石工業の採掘量増加に伴いその細石処理の為に日本石灰石工業と同じ3社で共同出資(3社均等出資の資本金1億5,000万円,授権資本6億円[出典:明星セメント25年のあゆみ 昭和58年])を以て5月15日に明星セメント設立。田海鉱業所の近傍に年間約30万t(湿式キルン2基),当初15万t場を設立する方針だったが青梅町内に工場を有す電気化学工業の反対で紛糾した。最終的には36年12月に県当局の仲介による財界代表5氏(佐藤喜一郎・原安三郎・植村甲午郎・諸井貫一・水上達三)の調停によって工場を糸魚川市に建設することに落着して解決した(糸魚川は用地買収について市が責任を持ち,固定資産税の3ヶ年減免,工場から国道に至る産業道路を市が整備との条件で誘致に動いた)。この間,供給先を失ったセメント用石灰石は磐城セメント七尾工場に出荷していた[出典:住友セメント80年史]また明星セメント設立の際に,出資3社は化学メーカーでありセメント製造の経験がなく,日本セメント社の指導を仰いでいた。

1959(昭和34)年 所謂岩戸景気が始まり日本は高度経済成長時代が始まる。

1961(昭和36)年 02月にカ社の苛性ソーダ外販に弾力性を持たせるためにストックポイントとして京都市伏見区桃山に75t1基,翌37年04月に東京都江戸川区平井60t1基続いて39年10月40tタンク1基を設置。また日本石灰石開発の精鉱の供給が当初目標の100万トンに達し,37年以降カ社の必要量の全量を同社よりの供給で賄うことなり現在(1989年)に至る。また日本石灰石開発社の供給拡大に伴い,从来の供給元であった電化(青梅)及び大セル(親不知)からの供給は漸減の措置を取り,また設備支援を行った山岸鉱山よりの石灰石受け入れは,36年12月に東海電極社滑川工場に移譲した。

1962(昭和37)年8月 設立時より技術指導などに関わっていた日本セメント社がセメント事業の環境悪化により参加することとなり,資本金を4社均等出資の3億円に増資,販売業務も全て日本セメント社に委託することとなり,38年8月糸魚川工場の完成に先駆けて明星セメント社は日本セメント社と販売委託契約を締結,全量はアサノセメントの商標で販売されることとなる。また更にその後の4回の増資により資本金は15億円となった。


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