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金融機関観察スレッド

2999チバQ:2017/11/17(金) 16:30:26




■後世へ教訓伝えたい 経済部キャップ・宇野一征

 「今日直面している数多くの課題も、必ず乗り越えられると確信している」。社会人生活のスタートを切る晴れの日だというのに、その表情は険しかった。1995年4月、北海道拓殖銀行の「最後の頭取」となった河谷禎昌氏は、入行式で厳しい経営状況を率直に語った。

 私は当時、記者としてではなく、いち新入行員として河谷氏の訓示に耳を傾けていた。この時点ですでに創業以来初の赤字転落が確実視されていたが、私の危機感は薄かった。若さゆえの無知だけではない。大蔵省による護送船団行政で守られていた銀行の「不倒神話」を信じ切っていた。

 拓銀が破綻したのは入行から2年7カ月後の97年11月。私は翌年秋、北海道新聞社に記者として再就職した。河谷氏が特別背任容疑で逮捕されたのは、さらに半年後の99年3月。その後実刑判決を受けたが、この幕引きに釈然としない思いを抱く元行員は少なくない。「本当に悪いのは河谷氏ではなく、バブル期に過剰融資を行った経営陣」という思いに加え、銀行の経営を実質的に掌握していた大蔵省の責任が曖昧なままだからだ。

 不倒神話を生んだ護送船団行政とは、大蔵省が銀行の指導や検査・監督を行いながら各行を横並びで守ることだった。不良債権の処理一つとっても、無税で償却できるかどうかを認定する「償却証明制度」があった。役員人事について、大蔵省の担当者に相談することも少なくなかったという。

 そんな箸の上げ下ろしまで大蔵省にお伺いを立てていながら、なぜ当時の都市銀行10行の中で唯一、拓銀だけが消滅したのか。バブル期の放漫経営が引き金になったことは疑いようのない事実だが、金融当局が拓銀の経営危機をどの程度把握し、どう対応しようとしていたのかという点に関しては、今なお不透明な部分が多い。

 拓銀幹部としてただ一人服役した河谷氏は、これまで取材拒否を貫いてきた。しかし、破綻20年の検証には最後の頭取である河谷氏の証言が欠かせない。断られるのを覚悟しつつ取材を要請したところ、意外にも快諾いただいた。私にとってはるか雲の上の存在だった河谷氏が、破綻後に逮捕、裁判、実刑判決、そして服役という日々を経て語る肉声は拓銀の歴史を凝縮したようなすごみがあった。

 河谷氏は取材中、連日の日経平均株価上昇に触れ「いまの株価はバブル前夜と似ているかもしれないね」と語った。当時を知る拓銀幹部の多くが鬼籍に入った今、最大の重荷を背負い、この20年を歩んできた「生き証人」である河谷氏の言葉を余すところなく記録し、後世への教訓として読者に伝えたい。





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