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金融機関観察スレッド

2296チバQ:2012/09/12(水) 22:56:26
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/keizai/201206ketsudan/02.shtml
決断のとき 運命の合併 みなと銀行誕生
(2)兵銀破綻
負の遺産に震災も打撃


金融当局が開いた出資説明会の後、記者会見する神戸商工会議所の牧冬彦会頭(左)と米田准三副会頭=1995年9月、神戸・ポートアイランド、神戸商工会議所


 1995年8月30日は、日本金融史に刻まれる日となった。神戸・三宮に本店を置く第二地銀トップ、兵庫銀行の経営が行き詰まった。戦後初の銀行破綻だった。1兆5千億円に膨れ上がった不良債権の重圧に持ちこたえる力は、もはやなかった。

 「この2年間、再建に全力を注いだが、いくら汗を流しても追いつかない。バブル期の負の遺産はあまりに大きすぎた」。頭取の吉田正輝(故人)は声を詰まらせた。大蔵省(現財務省)銀行局長、日銀理事を務め、93年6月、兵銀再建の切り札として送り込まれた。「大蔵の威信に懸けて兵銀はつぶさない」ことを示す人事だったが、果たせなかった。

 兵銀は、中興の祖と言われた長谷川寛雄(故人)が、高松相互銀行との合併などで規模拡大を推進。「業界の暴れん坊」と称された。他行より高い金利で預金を集め、不動産関連融資に注ぎ込み、第二地銀トップになった。しかし、バブル崩壊で不動産価格が下落、一気に不良債権が膨張した。95年1月の阪神・淡路大震災が決定的な打撃となった。



 破綻の半月ほど前。兵銀の処理スキームはひそかに練られていた。

 神戸商工会議所副会頭でさくら銀行(現三井住友銀行)顧問の米田准三(67)は、東京・赤坂の日銀氷川寮で、大蔵省銀行局長の西村吉正(54)と向き合っていた。

 「兵銀は清算し、受け皿銀行を設けて営業譲渡する。頭取を引き受けていただきたい」。米田は黙り込んだ。兵銀とは、地元で激しく競合してきた。「なぜ救わなくてはいけないのか」との思いがよぎる。引き受ければ、さくら銀が兵銀を支援すると受け取られかねない。不良債権に苦しむのは大手行も同じだ。

 「共倒れになりかねない」。米田は、さくら銀頭取橋本俊作(65)らの意向を聞き、いったん断るが、日銀総裁の松下康雄(69)に説得された。松下は旧制神戸一中(現神戸高校)の1年先輩。太陽神戸銀行時代、頭取だった松下の下で副頭取を務め、三井銀行との合併に取り組んだ間柄だ。

 「兵銀の破綻処理は必ず成功させなければならない。何とか引き受けてほしい」。神戸はがれきの中にある。復興を支える地元銀行が要る―。米田は腹をくくった。



 9月28日、大蔵省と日銀が神戸商工会議所で新銀行への出資説明会を開いた。目標とする資本金は800億円。金融当局は奉加帳方式で大手銀行や生損保などに出資を要請。地元経済界に100億円余を割り振った。

 席上、神商議会頭の牧冬彦(故人)が呼び掛けた。「大企業も中小企業も苦しいのは同じ。貧者の一灯で心意気を示そう」。集まった資本金は約709億円。大手金融機関や地元の被災企業など約450社が応じた。兵銀の破綻処理を超えて、神戸経済界が後押しする枠組みが固まった。

 新銀行は「復興に一日も早く美しい花を咲かせたい」との思いを込め、「みどり銀行」と名付けられた。開業は96年1月29日。晴れやかな式典で頭取となった米田は笑顔を見せていたが、心中は不安でいっぱいだった。=敬称略。年齢、肩書は当時=

(松井 元)

〈兵庫銀行〉

県内の3無尽会社が合併し、1944年、兵庫無尽として発足。51年に兵庫相互銀、89年2月に普銀転換で兵庫銀行に。95年3月末で預金量2兆5300億円で第二地銀首位。店舗数147、行員数約3千人。95年8月に破綻。

(2012/06/20)


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